瞬は冥界で半日以上の時間を過ごしたつもりはなかったのですが、地上では 半月が新月になるほどの時間が経っていたようでした。 「瞬! どこに行ってたんだ! 心配したんだぞ!」 ハーデスに与えられた白い花を持って お城に帰った瞬を最初に出迎えたのは、氷河王子でした。 氷河王子は、無断で お城を出た瞬に、少し――かなり腹を立てているようでした。 瞬の姿が お城から消えたというので、氷河王子は ずっと瞬を捜しまわっていたのだと、王子付きの侍従が瞬に教えてくれました。 氷河王子の怒りを静めるために、瞬は 急いで ハーデスに与えられた白い花を氷河王子の前に差し出したのです。 「王妃様を生き返らせてもらえるよう、冥府の王ハーデスに頼みに行っていたの」 「マーマを生き返らせる? そんなことができるわけがないだろう!」 「え?」 王妃様の代わりに死んでくれる娘がいたら、その娘を妃に迎えると言っていたのに、氷河は自分の言葉を忘れてしまったのでしょうか。 『そんなことができるわけがない』と、ためらう様子もなく断言する氷河王子に、瞬は少なからず驚いたのです。 驚いて、けれど、そんなことはできないと思っていたのなら、氷河王子は 一層、彼の幼馴染みの働きを喜んでくれるだろうと、瞬は気を取り直しました。 そして、瞬は、ハーデスからもらった白い花を氷河の手に握らせ、彼に言ったのです。 「できるよ。この花があれば。これは冥府の王が僕にくれた花なの」 「死者の国の王が?」 「うん。冥府の王は、僕に言った。『流れ行け、命の花。嘆きの河を越え、記憶の河を越え、命の河を越え、死の河を越え、母なるものの命 目指して』って唱えて、この花をステュクス河に投げ入れれば、その花が冥府の王の許に届いた時、王妃様は生き返るって。氷河、すぐにスチュクス河に行って、その花を河に流して」 「瞬……」 氷河はきっと喜んでくれる。 これまで、氷河にも王妃様にも どんな恩返しもできなかった 捨て子で みなしごの働きを、きっと褒めてくれる。 瞬は そう思っていたのに――そうなることを期待し、きっと そうなると信じてもいたのに――王妃様を生き返らせることができると聞かされても、氷河王子は少しも嬉しそうな顔になってくれませんでした。 嬉しそうな顔になるどころか。 氷河王子は、これまで瞬が一度も見たことがないくらい恐い顔になって、瞬を睨んできました。 その上、氷河王子は、懸命に怒りを抑えようとしているのが わかる低い声で、瞬に問い質してきたのです。 「この花でマーマを生き返らせた時、失われるのは誰の命だ」 と。 「それは……」 『僕の命だよ』と答えれば、氷河王子は、王妃様を生き返らせることを ためらうでしょう。 瞬は、本当のことを氷河王子に言うわけにはいきませんでした。 「あの……王妃様が生きていらした時、王妃様が枯れかけていた花に お水をやって助けてあげたことがあって、その花が身代わりになってくれると――こ……この花がそうなの」 王妃様と氷河王子に助けてもらえなかったら、瞬は 赤ちゃんだった時に 死んでしまっていたでしょう。 実際、その花は氷河の手に渡った瞬間から、瞬の命そのもの。 瞬は 嘘をついているつもりはありませんでしたし、事実も そうだったでしょう。 問題は、氷河王子に その事実を見抜く力が備わっていたことでした。 「俺には、この花が おまえに見えるが」 氷河王子は、瞬を睨んだまま、そう言ったのです。 「氷河……何を言っているの――」 瞬は そう言うのが精一杯で、氷河王子の推察を誤りだと思わせる言葉が思いつきませんでした。 瞬は 嘘をつくのがへたで――というより、その術を知りませんでしたから。 「この花でマーマを生き返らせたら、おまえが死んでしまうんだろう? たとえ 小さな花でも、おまえが自分以外の命が犠牲になることを よしとするとは思えない」 瞬が何も言えずにいるうちに、氷河王子は、瞬が隠そうとしていた事実を どんどん暴いていきます。 「マーマが、おまえの命を犠牲にしてまで 生き返ることを望むとは思えん」 という、瞬が気付いていない振りをしようとしていたことまで。 本当は 瞬にも それはわかっていました。 あの優しかった王妃様が そんなことを望むはずがないということは。 けれど、では、瞬は 他にどうすることができたでしょう。 氷河王子に、元の元気で明るい氷河王子に戻ってもらうために、他にどうすれば。 「マーマはいつも、おまえを守ってやれと俺に言っていた。おまえは、強く優しく清らかな心の持ち主。おまえを守ることが、正しい意味で 俺を幸福にすることだと。つらい時も、悲しい時も、おまえが俺を支えてくれる。おまえが俺の側にいる限り、俺が道を誤ることはない。だから 安心していられると、いつもマーマは言っていた」 「僕だって……」 瞬だって、そのつもりだったのです。 氷河王子が つらい時、悲しい時、苦しい時、どんな時でも氷河王子を支えていてあげたいと、瞬はいつも思っていました。 必ず そうできると、少し うぬぼれてもいたのです。 けれど、それは瞬の思い上がりでした。 「だって、王妃様が亡くなってから、氷河は元気がなくなって、僕が氷河を力付けてあげたいと思っても、僕が氷河の側に近付くことさえ許してくれなくて――」 だから 王妃様でなければ駄目なのだと、瞬は思うことになったのです。 だから 氷河王子を立ち直らせるためには 王妃様に生き返ってもらうしかないのだと、瞬は考えたのです。 氷河王子は、言っていることと していることが真逆。 瞬には 氷河王子の気持ちが まるでわかりませんでした。 「それは……俺にも いろいろ都合があったんだ」 「都合って……?」 瞬が問い返すと、それまでずっと 怒りのせいなのか何なのか、やたらと強気、やたらと厳しい口調だった氷河王子は、急に もごもごと口ごもり始めました。 そして、瞬には やっばり よく理解できないことを、水気のないパンを口いっぱいに頬張っているように歯切れ悪く、氷河王子は語り出したのです。 瞬に理解できるわけがありません。 「おまえが 側にいたら、俺は きっと すぐに元気になってしまって、マーマに申し訳ない気持ちになるじゃないか」 なんて、そんなこと。 「……え?」 氷河王子の言うことの意味が わからなくて、瞬は きょとんとしてしまいました。 氷河王子が きまりの悪そうな顔になり、それから 彼は、その きまりの悪さをごまかすような早口で、勢いよく言葉を吐き出し始めました。 「そうこうしているうちに、何を勘違いしたんだか、大臣共が 俺の妃探しだとか何だとか 馬鹿なことを言い出した。おかげで、俺はマーマの死を のんびり悲しんでばかりいるわけにもいかないんだということに気付いたんだ。俺は、大臣共から馬鹿な考えを消し去り、おまえの居場所を確保して、それを盤石のものにしなければならなかった」 「僕の居場所……」 瞬は、それまで 王妃様亡き後の自分の居場所のことなど 考えたことがありませんでした。 王妃様が生きていた時、瞬は 王妃様の身の周りの細々とした雑事のお手伝いをする小間使いで、それ以上でも それ以下でもありませんでした。 ですが、王妃様が亡くなってしまったら、そして氷河王子がお妃様を迎えたら、確かに瞬は用無し。 すぐに お払い箱になってしまいます。 「だから、俺は策を練ったんだ。マーマ亡き後しばらく、国政に支障が出るくらい落ち込んで、やる気をなくして、もう この腑抜け王子は駄目だと 皆が思い始めたあたりに、おまえの力で奇跡の復活を遂げる俺を演出しようと。おまえが ついていれば 俺は大丈夫、おまえがいないと 俺はただの腑抜けになる。皆に そう思わせれば、俺が いつもおまえを側に置いても、誰も文句が言えなくなるだろうし、俺とおまえが特段のことになっても、無理に引き離そうとする者は現れないだろうと――」 「特段のことって……?」 「あ? いや、それは――」 それまで滔々と、瞬には訳のわからないことを言い立てていた氷河が、また もごもごと口ごもり始めます。 結局、氷河は、瞬に“特段のこと”がどんなことなのかを 教えてはくれませんでした。 「とにかく俺は、一度 ものすごく ものすごーく落ち込んで、そこから奇跡の復活を遂げなければならなかったんだ。だが、おまえが 側にいると、ものすごーく落ち込んでる感じが 嘘っぽくなって、真剣味に欠けて、深刻さが感じられなくなってしまうから、しばらく おまえを遠ざけておく必要があった。しかし、それもこれも すべてはおまえを いつまでも俺の側に置くため。俺は おまえが側にいてくれれば、すぐに真面目で仕事熱心で元気でカッコいい王子に戻るんだ。おまえを失ったら、俺は死ぬまで 能無しで腑抜けな駄目駄目王子だ」 「……」 氷河王子の言うことが すべて理解できたわけではありません。 むしろ、瞬は、氷河王子の力説の9割方は理解できていませんでした。 ですが、やたらと長ったらしい演説というものは、大抵 最後の結論さえ理解できれば、中間部分は聞き流しておいても あまり支障はないものなのです。 氷河王子の長広舌の結論。 それは、『“瞬”が側にいれば、氷河王子は すぐに真面目で仕事熱心で元気でカッコいい王子に戻る。“瞬”を失ったら、氷河王子は死ぬまで 能無しで腑抜けな駄目駄目王子だ』ということ。 氷河が そう思うようになった理由とか、そういう結論に至った経緯とか、その結論が正しいかどうかの検証とか、そういうことは 瞬には(理解できなくても)どうでもいいことでした。 自分が氷河王子の力になることができる、氷河王子が そう思ってくれている――ということさえ わかれば、瞬は他のことは理解できないままでもよかったのです。 それが瞬のしたいことで、優しかった王妃様の ご恩に報いることでしたから。 氷河王子の言う“特段のこと”がどんなことなのか、それは ちょっと気になりましたけれどね。 「おそらく 大変な苦労をして手に入れてきてくれたんだろうが、俺が この花を使うことはない。俺は、おまえと生きていくから。それがマーマの望みだと思うから」 そう告げて、氷河は、瞬から手渡された白い花を、傍らの棚の上にあった真鍮のお盆の上に置きました。 「氷河……」 それが 本当に王妃様の お望みでしょうか。 瞬は 一瞬 不安になったのです。 それは、幸せを手に入れかけている大抵の人間が、その幸せを手にする直前に抱く不安でした。 けれど、もちろん、それが王妃様が 望まれることなのです。 王妃様の願いは、誰かの命の上に 自分が生き返ることではなく、たった一人の息子である氷河王子が 国の民に愛され尊敬される立派な王様になること、氷河王子が幸福になること。 きっとそうでしょう。 王妃様は そういう方でした。 「マーマが生きていた頃は、俺は、おまえとマーマで両手に花だったが、これからは 俺は、おまえを抱きしめるために両手を使う」 氷河王子が そう言って、その言葉通りのことをします。 氷河王子は、瞬が望んでいた通りに、元の元気で明るい王子様に戻っていました。 氷河王子の胸の中で、瞬は とても――とてもとても嬉しい気持ちになったのです。 愛の謎は、まだ解けていません。 何が正しくて、何が間違っているのか、それは 瞬には まだ わかっていませんでした。 カロンのように 誰も愛さなければ、愛の苦しみや つらさを知らずに済むのか。 苦しみや つらさを知らないことが 幸福なのか。 ルネが言っていたように、愛してはならないとされている人を愛することは罪なのか。 愛すべき人を愛さないことは罪なのか。 死んでしまった人を生き返らせようとしたオルフェの愛し方は間違っていたのか。 そもそも愛し方に、正しい愛し方と間違った愛し方があるのか。 そもそも、人は なぜ人を愛するのか。 幸福になることが愛の目的なのか。 けれど、氷河が自分と生きていくと言ってくれて、明るく笑ってくれたので――それが瞬の望みだったので――瞬は 今は とても幸せでした。 愛の謎は、まだ解けていません。 瞬と氷河王子は、これから 二人で 愛の謎を解いていくのです。 Fin.
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