テニスのお姫様






元はといえば、1冊のパンフレット。
氷河と瞬のマンションの近くに、テニススクールができ、その生徒募集のパンフレットにナターシャが目を留めたことが、事件の発端だった。

新設されたテニススクールの代表は、自身もテニスを愛好する 世界的家電メーカーの創業者で、昨年 現役を引退したばかり。
日本テニス協会の重鎮の一人でもあった彼は、自らが興した会社を後進に譲って その経営責任から解放されるや、数十億の私財を投じて、彼個人が代表を務めるテニスファンドを設立した。
ファンド設立の趣旨は日本国内でのテニスの振興と隆盛を図ること。
悲願は、世界4大大会で日本人初の優勝者を出すこと。
――と、パンフレットには明記されていた。

その悲願達成のためのプレイヤー育成と才能の発掘を行なう拠点として開校したテニススクールの広い敷地内には、屋内、屋外に芝コート、ハードコート、クレーコートが計12面。
3歳から入校を許可するが、あくまでも 世界に通用するプロテニスプレイヤー育成が目的なので、一定レベルの才能がないとみなされる者の入校は断ることもある。
経営収支を度外視して、レッスン料コート使用料無料、ラケットやボール等も無料貸与、場合によっては海外留学の費用も すべて提供する特待生コースも設置。
破格の援助が約束される特待生コースに 義務教育終了前の児童生徒が進む際には、両親にもテストや面接を受けることを義務付ける――等々、かなり本格的な規則のあるテニススクール。

(くだん)のパンフレットには、日本テニス界の選手育成体制の後進性とレベルの低さを訴えるページがあり、それとは対照的なテニス先進国の状況を紹介するページがあった。
そのページに、ナターシャと同じくらいの歳の女の子がサーブを打つ瞬間の写真が掲載されていたのである。
ナターシャが目を留めたのは、だが、ラケットやボールではなく、その少女の美しいフォームでもなく、彼女が着ている鮮やかなオレンジ色のテニスウェアだった。
いわゆる“ひらミニ”と呼ばれる、超ミニスコート。
サーブを打とうとしている少女の 躍動以上に躍動的に 蝶のように翻るスコートが、ナターシャの目には 非常に魅惑的に映ったのだろう。
ナターシャは、その少女と同じように ひらひらと翻るスコートを身につけ、テニスコートを駆けてみたいという夢を抱いたらしかった。

そういう経緯で、ナターシャにテニスを習いたいと ねだられた瞬は、特に反対する理由もなかったので、受講費無料の入学テストを兼ねた親子体験コースに、ナターシャと共に参加したのである。
設立されたばかりのテニススクールは盛況で、受講の予約を取るのが大変だった――と、そこまでは 氷河も事前に瞬から話を聞いていた。
「コーチが20人以上いて、他にトレーナーや常駐のスポーツドクターもいて、子供のお稽古レベルのスクールじゃなかったよ。僕とナターシャちゃんが参加したのは、未就学の子供たちだけのキッズコースで、軽く見学するだけのつもりだったのに、歩き方や走り方、反射神経を見たり、ボールを恐がらないかとか、そういうことを厳しくチェックされて――。ナターシャちゃんのお目当ては ひらひらの可愛いテニスウェアを着ることだから、面倒な検査を受けさせられるのは ちょっとつらかったみたいだったけど、ナターシャちゃんは 我慢強く お行儀よく 検査員の言うことを聞いてたよ」

「ナターシャ、お行儀よくシテタヨー」
リビングルームの、ソファではなく 絨毯の上に置かれたクッションに座って、ローテーブルの上のジュースのグラスと格闘していたナターシャが、氷河に報告してくる。
「そうか。ナターシャは偉かったな」
自分の願いを叶えるため、欲しいものを手に入れるためには、我慢が必要なこともある。
その事実を ナターシャが学んだだけでも、テニススクールに行った甲斐はあったと、瞬は思っているようだった。
もちろん、氷河もナターシャを褒めた。
“我慢強く、行儀よく”などというフレーズは、氷河が愛用している辞書には載っていない。
にもかかわらず、礼儀正しく振舞えない人間が大嫌いな氷河には、ナターシャの我慢強さ、行儀のよさは 十分に称賛に価することだった。

「今日は ちょうどテニススクールを設立した校長先生と、主任コーチに就任する予定だっていう人が視察に来てたんだ。校長先生は、テニス好きの子供を育てるには、まず 親がテニスを楽しんでいる姿を子供に見せるのが いちばんだっていう考えの持ち主らしくて、その主任コーチさんと 入学希望者の保護者とでラリーの楽しみを実演してみせてはどうかっていう提案をして、立候補を募ったんだよ。僕たちと同じコースに参加していた お母さんたちは ほとんどがテニス経験者で、だから僕もそうだと思われたらしいんだけど、立候補者たちの中から僕が指名されたんだ」
「立候補者たちの中から――って、おまえも立候補したのか?」
氷河が少しく 驚いて瞬に尋ねたのは、瞬がテニス未経験者だということを、彼が知っていたからである。
テニスや野球、ゴルフ、バドミントン、ホッケー等、ボール以外の道具が必要な球技を、瞬は――氷河も――知らなかった。
それらのスポーツを行なうために必要な道具を買ってくれる親が、彼等にはいなかったから。

「ん……ちょっと事情があって」
氷河に問われたことに、瞬が答えになっていない答えを返してくる。
「事情?」
氷河は、その事情の内容こそを説明してほしかったのだが、瞬は 氷河の期待に応えてくれなかった。
代わりに、困ったように両肩を すくめる。
「校長先生は70絡みの綺麗な白髪の品のいい老紳士で、にこにこしながら、主任コーチは ラリーが続くように加減してくれるだろうから、とにかく コート内に打ち返してくれればいいって言ってくださったの。だから、僕は その通りにした。ギャラリーがコートの左右にいたから、僕、どちら側にいる人にも見えるようにって、左右に交互にボールを打ち返していたんだ。だけど、主任コーチさん、そのうち、僕についてこれなくなって」
「それはそうだろう。で? テニススクールのコーチにでも勧誘されたか。今の職より いい報酬をもらえるならとでも答えれば、向こうも諦めるだろう」

瞬はアテナの聖闘士である。
アテナの聖闘士の運動能力、運動神経、体力を考えれば、たとえラケットを握るのが 生まれて初めてであっても、瞬が一般人に打ち負けるわけがない。
優れたプレイヤーが優秀な指導者になれるとは限らないが、主任コーチ(に就任する予定の者)が ついていけないほどのプレイを見せる人材がいたら、テニススクールの校長としては、その人材を捨て置くことはできないだろう。
まして、金儲けではなく、強い選手の育成を目的として設立されたテニススクール。
尋常でない才能と実力の持ち主を見過ごすようなことはできまい。
当然、その校長は、瞬の才能を自分の学校で有効活用することを考えただろう。
――と、氷河は察した。
のだが。

「ちゃんと、手加減はしたんだよ!」
テニススクールで何が起こったのかを語り始める前に、瞬が まず言い訳を口にする。
珍しいこともあるものだと思いながら、氷河は、瞬の続く言葉を待った。
「ちゃんと手加減はしたんだけど、ナターシャちゃんが応援してくれてたから、みっともないところは見せられないって気負ったせいで、ちょっと 手加減の加減を誤っちゃったらしくて」
「それで?」
加減を間違えたせいで コーチとして勧誘された――のではないのだろうか。
もし そうではないのだとしたら、他に どんな“困ったこと”が 瞬の身に降りかかってこれるのか。
氷河には 皆目 見当がつかなかった。
その答えが、瞬から告げられる。






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