「僕の氷河を、君にあげられたらいいんだけど……」 「俺が愛しているのは、おまえだけだ。“瞬”なら誰でもいいというわけじゃないぞ。同じ顔、同じ名前。だが、こいつは俺と共に命をかけた戦いを戦ってきた瞬じゃない」 氷河は優しいが、甘くはない。 “氷河”には、自分が瞬を愛していることが何よりも大事なことだから、その愛を侮辱されると、彼は本気で怒る。 それは わかっているのだが――。 「氷河……。僕なんだから、もう少し優しくしてあげて――とまでは言わないけど、もう少し優しく言ってあげて」 「こいつは、おまえじゃない。俺の瞬じゃない。それはできない」 彼が愛する者に対する氷河の誠意は、他者には時に冷酷。 それが、氷河の優しさなのだ。 「俺が この瞬に与えられるのは、ナターシャに与えられるものと同じものだけだ。せいぜい 頭を撫でてやることくらい。あとは、“高い高い”をしてやって、ボール投げに付き合ってやって――」 「そして、命をかけて守ってあげることくらい?」 「……そうだ」 嘘をつけない自分を不愉快に感じているように、氷河が正直な答えを返してくる。 瞬は 微笑んで、この世界の氷河がナターシャに与えるものと同じものを与えられることの意味を、異世界の瞬に教えてやった。 それが“氷河”を失った瞬にとって 嬉しいことなのか つらいことなのかは わからなかったが、それでも。 「氷河は とてもナターシャを愛しているよ。もしかしたら、僕より」 「ナターシャは、おまえより小さくて非力だから、注意を向ける必要があるだけだ」 いずれにしても、氷河がナターシャを深く愛していることに変わりはない。 氷河に“小さくて非力な女の子”と同レベルと言われたも同然の異世界の瞬が、泣き笑いめいた表情を作る。 それが あまりに つらそうだったので、瞬は胸が痛んだ。 かわいそうだと思った。 自分のことではないように。 「僕は、自分を愛することがへたな人間だ。君もそうなんだと思う。でも、僕は、君をなら愛してあげられるよ。少なくとも、僕自身よりは。君は僕じゃないから」 抱きしめてやることはできないが。 “瞬”を抱きしめるのは“瞬”の仕事ではない。 この世界の氷河の仕事でもない。 『抱きしめてあげて』と、(彼の)瞬に頼まれても、氷河は断固 拒否するだろう。 瞬は、氷河の手を借りずに、“氷河”を失ってしまった瞬の心を慰めてやらなければならなかった。 だが、どうやって 慰めてやればいいのか――。 瞬にできることは、ただ 事実を語ることだけだった。 「君の氷河が、僕の氷河と同じ心を持った氷河なら――氷河が、僕のことで不幸になることは 決してないよ。氷河は僕を愛していて、僕が必要で、僕のために生きることも、僕のために死ぬことも、氷河には幸福でしかないんだ」 瞬が語る事実に、異世界の瞬は 少なからず驚いたようだった。 もっとも、彼が驚いたのは、瞬が語る事実そのものではなく、その事実を“瞬”が語ること自体のようだったが。 「あなたは……僕とは思えないくらい自信家だ」 異世界の瞬が全くの他人を見るような目を、瞬に向けてくる。 15歳の頃なら、自分も そう感じていただろうと、瞬は思った。 だが、それは紛う方ない事実なのだ。 「自信じゃないの。僕が 氷河に対してそうだから。氷河のために死ぬのも、氷河のために生きるのも、僕には幸福だ。氷河を守って死ねたら、最高に幸せだと思う」 その意見には、異議も驚きもないらしい。 異世界の瞬は、素直に無言でいた――異議は唱えなかった。 「君が つらいのは、君が氷河のために死んだのではなく、君が氷河に死なれてしまったから。たまたまそうだったから。逆なら、幸せになれたのに。君の氷河は、君が幸福になることを許さなかった。邪魔した」 愛する者を命をかけて守ることは、“瞬”にとっても最高の幸福なのに。 異世界の瞬は、瞬の言を否定できなかったらしい。 『そうではない』と、彼は瞬に反論してこなかった。 それは、彼にとっても 否定できない事実だったのだろう。 その事実を受け入れて――彼は瞬を見詰め、それから、おそらくは懸命に勇気を奮い起こして、氷河の顔を見上げた。 そこにいる氷河は、彼の氷河ではなかったが、涙を帯びた声で、異世界の瞬が切なげに訴える。 「僕は、僕の氷河を好きでした」 「うん……」 「大好きだった。本当に好きだった。僕は せめて――」 「大好きだと伝えたかった?」 「はい」 彼の気持ちが わかりすぎるほど わかって、瞬は苦しかった。 同じ立場に立たされたなら、自分も同じように思うだろう。 せめて、好きだと、氷河に言いたかった。 それで、自分は自分を愛してくれている人のために命をかけたのだということを知った氷河の心が、少しでも和らいでくれたなら――と願って。 そんなことを知っても 知らなくても、“氷河”は変わらないだろうが。 “氷河”は自分のしたいことをするのだろうが。 それでも。 異世界の瞬の悔いを、“優しい”氷河が ぶっきらぼうな声音で否定してくる。 「おまえの氷河は知っていたと思うぞ。俺なぞ、初めて瞬に会ったガキの時から、いつか 瞬は俺のものになるんだと決めつけていた。そのことは瞬も承知しているだろうと思っていた」 「僕は、さすがに7つの時には、そんなこと考えてなかったけど」 「15の時は?」 ほとんど 間を置かずに、氷河が重ねて問うてくる。 問われて、瞬は、暫時 答えに窮した。 『知っていたか』と問われれば、その答えは『知らなかった』である。 だが、そうなるだろうことを『感じてはいた』もしくは『予感していた』ような気がする。 瞬が、 「僕、本当に奥手だったから」 と答えたのは、15歳の瞬のためだった。 気付かずにいたのも、何も告げずにいたのも、君だけではないと(それは決して嘘ではない)、15歳の瞬に告げ、彼の後悔を少しでも軽くするため。 打ちひしがれている彼の心を、少しでも慰めたいと思うから。 そして、自分が そう思うということは、異世界の瞬と 自分は やはり全くの別のものなのだと気付く。 彼を自分と同じ物だと認識していたら、瞬は彼を(自分を)どこまでも容赦なく責めていたはずだった。 「おまえの世界で、おまえや おまえの氷河が どうだったとしても、おまえは やり直すことはできない」 異世界の氷河がどうであっても、この世界がどうあっても、確かな事実は それだけである。 “やり直すことはできない” その残酷な事実(だが、わかりきった事実)を、氷河は言葉にしてしまった。 「おまえは 一人で生きていくしかない……。一輝は何をしている。星矢たちは何をしているんだ! 俺が瞬のために無茶ができるのは、それで俺がドジを踏んでも、あいつ等が瞬を支え、立ち直らせてくれると信じているからだぞ! 肝心の時に、奴等は昼寝でもしているのか!」 この場にいない仲間たちに怒りを向け始めた氷河に、異世界の瞬は少なからず慌てたようだった。 “氷河”が そんな考えで無茶をしていたことを、彼は知らなかったのかもしれない。 「星矢たちは――星矢たちには、心配をかけたくないから……」 だから 彼は、仲間たちの前では 無理に元気な振りをしていたらしい。 自分も、彼と同じ立場に立たされたら同じように振舞うだろうと、瞬は(また)思った。 自分ではない瞬を、自分らしいと思った。 だが、彼は、自分ではないので――瞬は、自分ではない瞬に、仲間たちに甘えることを勧めることができたのである。 「星矢たちに、『僕は氷河が大好きだった』って言ってみたら、少しは気持ちが楽になるかもしれないよ。氷河に好きだと言えずにいたことが つらいのなら、せめて仲間たちに そのことを知ってもらえば、生きている者たちにとって、君の氷河は 君に愛されていた人間になることができるでしょう?」 「そんなことをして、どうなるの。それで 僕の気持ちが楽になっても、それは僕だけのことで――僕自身のためのことで、氷河のためのことじゃない。そんなことをしたって、僕の氷河が幸せになるわけじゃない」 「うん……」 15の時の自分なら、やはり同じように考えていただろう。と思う。 氷河を“瞬に愛されていた男”にしても、それは自己満足にすぎない。 それは卑劣な行為でしかない、と。 異世界の瞬の考えが 手に取るようにわかるだけに、瞬は“瞬”という人間の度し難さが切なかった。 子供だった頃、“瞬”は自分を責めることでしか、楽になれない子供だった。 だが、そうではないのだ。 最初に そのことに気付いたのは、冥界でルネに責められ、戦い続けることを諦めかけた時だったか。 兄に『おまえが 俺に負い目を感じる必要はない』と言われた時だったか。 あるいは、それより もっと以前から気付いていたのかもしれない。 だが、それは間違っている。 人は、幸福になろうとすることで、本当に幸福になるのだ。 そうあるべきである。 人が幸福であることは、罪ではないのだから。 「もちろん、それは君のためだよ。君が楽になるため。君が幸福になるため。君が生きていくため。そのために 君は、自分のためにできるだけのことをしなきゃならないんだ。君の氷河が それを願っているから。君の氷河は、君の幸福を願ってるよ。そうでないはずないでしょう。氷河だもの」 「あ……」 異世界の瞬が、“幸せな大人の瞬”の瞳を見詰めてくる。 そうしてから、15歳の瞬は、彼には 決して手に入れることのできない“幸福な大人の氷河”の顔を見上げ、その瞳に涙を盛り上がらせた。 乾いた瞳を潤すためではなく、自身の感情を発露しての涙。 氷河に愛されるということは どういうことなのか、その本当の意味を、彼は 今初めて知ったのかもしれなかった。 「僕は幸福にならなければならない……」 大人の瞬たちが聞いた、それが異世界の瞬の最後の言葉だった。 それが一生をかけても成し遂げられない難事だということは わかっているのだろう。 彼の声音は、固く重たかった。 “氷河”の死は、“瞬”にとって それほど大きな喪失なのだ。 それでも彼は、少なくとも そのために努力する決意だけは為すことができたに違いない。 だから、彼は、瞬たちの前から消えていったのだろう。 だからこそ 彼は、彼の“氷河”のいない彼の世界に戻っていったのだ。 春と夏の間の もどかしく暖かい空気の中に。 その場に、春と夏の間の もどかしく切ない空気だけを残して。 |