フランス革命後の恐怖政治に懲りたのか、フランスの第二帝政から共和政への移行は、比較的 血なまぐさい事件を伴わずに行なわれた。 少なくとも『貴族は貴族であること自体が罪であり、その存在は共和政とは相容れない』という サン・ジュスト的理論を振りかざして 貴族の皆殺しを図るような過激な活動家は現れなかった。 君主制復権を求める元貴族たちも、往時ほどではないにしろ健在で、そのサロンも華やかである。 そんなサロンの一つを開いているドービニェ家に 氷河が出掛けていったのは(大人しく カミュに連れていかれたのは)、『おまえの記憶の中の母親より、城戸家の令嬢の方が美しい』というカミュの挑発に乗せられてしまったからだった。 禁句には禁句で――と、カミュが考えたのかどうかは わからなかったが、ともかく 氷河は、自分の目で問題の令嬢の姿を確かめ、カミュの言を否定するために、ドービニェ夫人の屋敷に足を運んだのである。 結果を先に言うと、氷河はカミュの言を否定することはできなかった――しなかった。 負けを認めたわけではない。 氷河はただ、問題の令嬢に出会って、『おまえの記憶の中の母親より、城戸家の令嬢の方が美しい』というカミュの言を否定するという、サロン訪問の目的を忘れてしまったのだ。 東の果てにある小さな島国からやってきた城戸家の令嬢は、確かに美形だった。 “控えめで、つつましやかな日本女性”という評判を裏切らない、見るからに清純派。 伏し目がちな佇まい。 結い上げた亜麻色がかった金髪には、宝石ではなく生花を飾っている。 今日はバッスルスタイルのドレスではなく、パフスリーブのアールヌーヴォー調のドレス。 氷河の目で見ても、白人にしか見えない――否、白人にしか見えないのではなく、白人にも東洋人にも見えない。 『マーマの方が美しい』と言い切ることができず、代わりに氷河は低く呻くことをした。 「日本人は胸元を隠すものだと思っていたが」 ほっそりしているが、胸も豊か。 胸元に目がいくのは男の性によるものではなく、彼女の肌が美しいからだった。 コーカソイドは、色は白いが、肌の肌理が荒い。 露出面積の広い胸元で、それは特に目立つ。 その点、日本の気の毒な令嬢の肌は実に なめらかで、助平心からではなく 触ってみたいと思わせるものがあった。 「日本語の名もあるのだろうが、フランスではエスメラルダと名乗っている。母親がアフリカ系フランス人だからな。アフリカにいた時期もあるそうだ。案外 アフリカでは裸で走り回っていたのかもしれないぞ」 「何を言っているんだ」 カミュの時代錯誤な偏見に、氷河は呆れた。 普仏戦争に敗れて 傷付いたプライドを回復すべく、今 フランスは精力的かつ野心的に海外に進出している。 アフリカ、アジア、新大陸に着々と植民地を獲得し、アフリカ各地にも 多くのフランス人が渡っているのだ。 裸で走り回っているようなアフリカ人は 欧米列強の文化に毒され、その文化を受け入れることのできないアフリカ人は 徐々にアフリカの奥地に追いやられていると、氷河は聞いていた。 カミュは、故国フランスに固執はするが、植民地政策には興味がないらしい。 「だが、紛う方なき日本人だ。日本の女性は、フランスの女と違って貞操堅固。日本には“二夫にまみえず”という言葉もあるそうだ。子供を作れとまでは言わないが、既成事実さえ作ってしまえば、彼女は おまえを夫と認めるしかないと考えるだろう」 そんな貞操堅固な女性なら、奔放な愛の国フランスではなく、お堅い英国かオーストリアの方が、(少なくとも妻としては)受け入れられやすいだろう。 にもかかわらず 彼女は なぜ フランスにやってきたのか――と、氷河は彼女の(城戸家の)選択を訝ったのである。 エスメラルダは、文句なく美しかった。 途轍もない大富豪の令嬢だという情報は、3、40人ほどのサロンの出席者全員に行き渡っているのだろうが(そのうちの3分の1は若い男だったのだが)、彼等は彼女を遠巻きに眺めているばかりで、積極的に近付く気配を見せない。 巨額の持参金が約束されている美しい女性は、帝政様式の長椅子に、一人 ぽつねんと、いかにも 所在無げな面持ちで腰掛けている。 ドービニェ夫人に紹介の労を取ってもらい、彼女を間近で まじまじと観察し、氷河はその理由を知った。 彼女は 確かに美しいが、蠱惑的でない――全く 男心を そそらないのだ。 ひたすら控えめで、存在を主張しない空気。 そんな空気で作られた鎧を身に まとい、彼女は 全身で 他者の視線や関心を拒否している。 彼女が、お堅い英国やオーストリアでくなく、あえて恋の国フランスにやってきたのは、もしかしたら こうなることがわかっていたから――期待していたからなのではないか。 その可能性を氷河は疑った。 彼女は結婚したくないのだ。 少なくとも、このサロンにやってきている若いフランス男とは。 でなければ、年若い女性――少女と言ってもいいほど若い――が、ここまでヴェルソー侯爵家の跡継ぎの美貌に無感動でいられるはずがない。 ――と、うぬぼれではなく、至って冷静に、氷河は思ったのである。 氷河は、相手の年齢の いかんに関わらず、初対面で ここまで彼の美貌に反応を示さない女性に会ったのは、これが初めてだった。 彼女の無関心に腹が立たないのは、それが氷河の望むところでもあるからである。 彼女は 氷河と違って不愛想というわけではなかったが、その微笑は いかにも空虚。 どこか おどおどしているようにも見える。 氷河は、彼女は異国の地で異国人に接することを恐れているのかと思ったのだが、そういうことでもないようだった。 むしろ、心ここにあらず。 父親の命令か、城戸家の方針に従ってのことなのか、彼女は上流社会のサロンに出入りすることを義務化されているのだろう。 だが、それは彼女の本意ではなく、ここに こうしていることは、彼女にとっては苦行でしかない。 彼女は、どうにかして この場を辞するきっかけを得られないものかと、それだけを考えているようだった。 「顔色が悪い。今日は帰った方がいいのではないか」 エスメラルダの意を汲んで、氷河は 彼女にそう言ってやった。 その言葉を聞いたエスメラルダが、初めて まともに氷河の顔を見上げてくる。 「ご親切に、どうもありがとうございます。そうさせていただきます」 それが、極東の島国から やってきた大金持ちの令嬢が 最初に氷河に聞かせてくれた、感情の伴った言葉だった。 その感情は、もちろん“喜び”。 苦行の場を去る きっかけを与えられたエスメラルダは、その正直な感情の発露に 氷河が面食らうほど、嬉しそうだった。 カミュが白羽の矢を立てた、控えめで つつましやかな日本女性に、結婚の意思は全くない。 その確信を得て、氷河は、むしろ やる気になってしまったのである。 相手に その気がないのなら、結婚という作業なしで、何とか城戸家の援助を取り付けることはできないか、その策を練ることに。 『求婚しない代わりに、侯爵家に援助してくれ』と、エスメラルダに求めるのはどうだろうと、そんな滅茶苦茶なことまで 氷河は考え始めたのである。 |