ヴェルソー(元)侯爵であるところのカミュは上機嫌だった。
もちろん、彼の企んだ政略結婚話が うまくいっているのだと誤解して。
ヴェルソー家の氷河が 正体不明の美少年を連れまわしていると、氷河の性的嗜好を勘繰る噂が立ち始めてからは 外出を控えて、代わりに瞬は、ヴェルソー家の城館にやってくるようになってきていた。
侯爵家の尊厳第一、その点に関わることでなければ差別意識も人種的偏見もないカミュは、瞬の男装も倒錯的で可愛いと言っている。

実際、瞬は、ドレスを着ている時より 男装している時の方が魅力的だった。
控えめで大人しい女性として振舞う義務から解放されている時の方が、はるかに。
フランスも、日本も、世界中のすべての男性優位社会の男たちは、自分が幸福になるために、女性を あらゆる束縛から解放し、男性と同じ権利を与えるべきだと、以前は考えもしなかったことを(反対していたわけでもないが)氷河は考えるようになっていた。
そして、持参金なしで(政略結婚という形をとらずに)瞬と いつまでも一緒にいられるようにする方法を、氷河は真剣に考え始めるようになっていたのである。


薔薇園だけは、カミュが手入れを怠らないので、以前と変わらぬ美しい佇まいを保っていたが、金がないせいで庭師を入れることができないため、ヴェルソー(元)侯爵家の庭は 今では ただの野原になっている。
氷河は、だが、人の手で整備された人工的な庭より、シロツメ草でいっぱいの野原の方が好きだった。
雑草の1本も生えていない庭には 寝転がることもできない。
自然の緑の絨毯が敷かれた大地に寝転がり、大地に触れ、空の青さを堪能するという遊戯を、フランスの貴族は忘れてしまったのだ。
これほど優雅で贅沢な遊戯もないと言うのに。

「この庭、どうせ 遊ばせておくなら、麦か野菜でも植えて、生産的に活用することを考えたらいいのに。フランスは農業大国でしょう」
氷河の その優雅で贅沢な遊戯に水を差してきたのは、ヴェルソー(元)侯爵家に いつのまにか すっかり出入り自由になってしまった瞬だった。
出入り自由も何も、執事と料理人と小間使いが一人ずつしかいない元侯爵家では、泥棒がやってきても、その泥棒を捕まえる者はいないのだが。
到底優雅とは言い難い瞬の提案を、氷河は、しかし、不快には感じなかった。
快く受け入れることもしなかったが。

「カミュは薔薇の育種には熱心で、知識も豊富なんだが、麦やジャガイモの育て方は知らないんだ」
「薔薇の育種は貴族的で、麦やジャガイモを育てるのは そうじゃないと考えているの?」
瞬は薔薇の花が嫌いなわけではない。
実際、初めてカミュの薔薇園を見た時には、その美しさと種類の豊富を大絶賛し、瞬の賛美の言葉は カミュを大いに喜ばせた。
瞬は ただ、極めて現実的で、家名の存続や貴族の誇りより 人間個々人の命の方が、より守る価値があるものだという考えの持ち主なのだ。
ジャガイモは食することができるが、薔薇の花は食料には なり得ない。

「それもあるかもしれないが……。ナポレオン1世の最初の妻のジョゼフィーヌ皇后が薔薇やダリアを好んでいた影響で、フランスの上流社会では 自分の館に薔薇やダリアの苑を作るのが流行ったんだ。第二帝政が崩壊するまでは、貴族の館には どこにも大なり小なり薔薇園があって、そこで咲かせた花の美しさを互いに競っていた。苗や球根の盗難騒ぎが起こるほどだったそうだぞ。ポワソン子爵家の薔薇園は うちより大規模だったし、ヴィエルジュ伯爵家の花園も有名だった。だが、今は どこの家も没落して――カミュは、この館の薔薇園を守ることが ヴェルソー侯爵家の尊厳を守ることだと考えている節があるな」
「薔薇の花が貴族の誇りなの……」
瞬はカミュに同情しているのか、それとも、貴族の誇りは薔薇の花以外のもので守るべきだと考えているのか。
カミュの気持ちも 瞬の価値観も わかるので、氷河は そのどちらかに味方することを避けた。

「おまえは薔薇より百合だな。清らかな白百合だ。……ああ、日本女性は 桜かナデシコに例えられる方が嬉しいのだったか」
「僕は、ジャガイモの花も綺麗だと思いますけど」
「オーストリア皇女にしてフランス王妃だったマリー・アントワネットも、ジャガイモの花をドレスに飾って舞踏会に出ていたそうだぞ。おまえの誇りは、貴族レベルを凌駕して、王族皇族レベルに達しているようだ」
「それは飢饉続きで 食糧難だったフランスに、ジャガイモを普及させるための策だったと聞いています」
では、瞬の提案は、一国の王妃レベルということか。
高貴な考えを持つ瞬に、庶民代表として、氷河は感服した。

「確かにジャガイモは腹の足しになるが……。麦やジャガイモを植えるのも悪くはないが、そんなものを植えたら、俺が寝転がる場所がなくなる」
「氷河が寝転がる場所は、庭の片隅に ちょっとだけ確保しておけばいい。日本には、“起きて半畳、寝て一畳”という言葉がありますよ」
「そういう問題では――。可愛い顔をして、どうして おまえは そういう意地の悪いことを言うんだ」
可愛らしい いじめっ子を懲らしめるために、氷河は、彼の脇に座っていた瞬の腕を、不意打ちのように引っぱった。
瞬の身体が氷河の胸の上に倒れ込んできて、二人の身体が重なる。
氷河は、瞬の髪の柔らかい感触を首筋に感じた時、まずいと思った。
が、まずいのは、氷河が危惧した まずさだけでは済まなかったのである。

瞬は、何かが おかしかった。
「わあっ!」
小気味いいほど現実的で、合理主義者でもある瞬が、らしからぬ素頓狂な声をあげ、弾かれるように自らの身体を 氷河から引き離す。
驚いて目を見開いた氷河の視界に、頬を真っ赤に染めた瞬が映り――。

「おまえ……」
続く言葉が出てこない。
これは いったいどういうことなのか。
「あ……あ……」
瞬は、氷河に何を言われることを恐れたのか。
氷河が何に気付き、何を言うと思ったのか。
いずれにしても 瞬は、氷河に何かを言われたくなかったらしい――聞きたくなかったらしい。
氷河が 言うべき言葉を思いつく前に、瞬は駆け出し、氷河の前から逃げ出してしまっていた。






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