エティオピアの若き国王ペルセウスが“アンドロメダ”を拾ったのは、彼の国の浜辺。 彼の母であるアンドロメダ王女が、海神ポセイドンの送った海獣への生贄として捧げられた岩場の近く。 彼と同名の父である英雄ペルセウスが、女神アテナの加護を受けて海獣を倒し、王女アンドロメダを救った、まさに その浜辺だった。 彼――英雄ペルセウスを父に持ち、父と同じ名を持つエティオピア国王ペルセウス――が、その“少女”に母の名を与えたのは、二人の出会いの場所が そういう場所だったから。 その“少女”が 自身の名を含めて すべての記憶を失っていたから。 そして、その“少女”が“少年”であることに、彼が 出会いの場では気付かなかったから――だった。 彼が浜辺で“アンドロメダ”を見付けた時、“彼女”は 丈の短いキトンを一枚 まとっただけの姿で浜辺に倒れていた。 腕も脚も剥き出し。 白色の綿のキトンは、その人間の身体の線を全く隠していなかったのに、彼は その拾いものを ほとんど何の疑いもなく、少女だと思い込んでしまったのである。 顔立ちは 優しく やわらかで、可憐な少女そのもの。 手足の肌は なめらかで、清らかな処女そのもの。 一目で この美少女を少年だと見抜ける者がいたとしたら、その人間は 人を見る時、顔立ちや表情より胸元に注目するような人間なのに違いないと、ペルセウスは 後刻、自身の見誤りを自身に言い訳した。 その時には、ペルセウスはもう 自分が浜辺で拾ってきた少年に“アンドロメダ”という名をつけてしまったあとだったのだ。 「大丈夫か? 名は何という? なぜ、こんなところに倒れていたんだ」 「……わかりません。ここはどこ? あなたはどなた? ……名前?」 ぐったりしていた身体を抱き起こし、意識を取り戻しても 心許無げに ぼんやりしている華奢な肢体の持ち主と交わした短い やりとり。 そんな やりとりだけで、その美少女が少年であることに気付ける人間などいるわけがない。 しかも、その間 ずっと、私は あの少女の澄んだ瞳から目を逸らすことができずにいたのだ。 馬に同乗させて城に戻ってからも、“アンドロメダ”の姿を認めた城中の者たちは皆、“彼”を少女だと信じているようだったではないか――。 そんなふうにペルセウスは、自身の見誤りを正当なものとして理由づけたのである。 誰に その見誤りを咎められたわけでもないのに。 この城に、この国に、国王である彼の誤りを咎められる者などいない――いないことになっている――というのに。 現実には、一人だけ、エティオピア国王ペルセウスを咎め、批判し、責める者はいた。 それが 彼の祖母カシオペアで、実際 彼女は孫のペルセウスが どこの誰ともしれない少女(少年)を拾ってきたことを 快く思わず、その軽率を責めた。 というより、彼女は、自分の孫が その拾いものに“アンドロメダ”という名を付したことが気に入らなかったのかもしれない。 それは、彼女の最愛の娘の名。大切な、特別な名。 彼女が 彼女の最愛の娘を失うことになったのは、彼女自身の言動のせいだったのだが、彼女は その事実を自覚していないようだった。 今から35年前、娘アンドロメダの美貌が自慢だった彼女は、その美貌を海の女神たちネレイデスに勝ると豪語し、神の怒りを買った。 その思い上がりの報いとして、『王女アンドロメダを海獣への生贄に捧げよ』という神託を受け、彼女は最愛の娘を 犠牲の岩場に縛りつけた。 そこに颯爽と登場し、海神ポセイドンが送った海獣を倒して、王女アンドロメダを救ったのが英雄ペルセウスである。 彼は、その英雄的行為の代償として、当然のごとくに 王女アンドロメダを己が妻とした。 王女アンドロメダは、エティオピア国王ケフェウスと 王妃カシオペアの一粒種だった。 アンドロメダが夫ペルセウスに従って、夫の故国アルゴスに去れば、エティオピアの王位を継ぐ者がいなくなる。 そこで 王女アンドロメダと英雄ペルセウスは、彼等の間に最初の男子が生まれると、その赤ん坊に 父と同じ名を与えて、エティオピア国王夫妻に託したのである。 英雄ペルセウスの息子ペルセウスは、赤子の時に両親と別れ、以後一度も両親には会っていない。 王妃カシオペアは、自分から最愛の娘アンドロメダを奪ったペルセウスを毛嫌いしていた。 そして、王女アンドロメダは おそらく、娘に身勝手な愛を押しつけ、愛の名のもとに 娘を自分の意のままにしようとし、都合が悪くなると娘を海獣の生贄にしてしまう 母カシオペアから逃げたがっていたのだ。 アルゴス王家とエティオピア王家は親類同士だというのに、今では ほとんど行き来のない国になっている。 夫との間に生まれた長男を、母親という怪物に 生贄として捧げ、王女アンドロメダは 我が身を母から遠ざけることに成功したのだ。 両親に見捨てられたも同然のペルセウスは、祖父母ケフェウスとカシオペアに育てられた。 ケフェウス存命中から 我儘で居丈高だったカシオペアは、夫ケフェウスが亡くなり、自分の育てたペルセウスが王位に就くと、いよいよ やりたい放題。 たとえ どんな事情があったにせよ、ペルセウスにとって カシオペアは自分を育ててくれた“母”である。 その恩義ゆえに、ペルセウスは祖母に厳しい態度をとることができない。 エティオピアの大臣たちは、王にも止められない王大后カシオペアの暴走を止めるべく、苦心惨憺していた。 王大后であるカシオペアと、国政の実務を行なう大臣たち。 事あるごとに対立し合っている その両陣営が、口を揃えて ペルセウスに要求する一つの事柄があった。 それが、『早く妻を娶れ』ということ。 王大后カシオペアは、自らの血を引くエティオピア王家の跡継ぎを欲して。 大臣たちは、王妃の登場によって、王大后カシオペアの発言力が減ずることを期待して。 周囲から やいのやいの言われるばかりで、自分のしたいこともできない国王ペルセウスが、行き倒れの少女(と思い込んでいた少年)を拾って城に連れ帰ったのは、そういう者たちへの、ささやかな抵抗だったのかもしれない。 自分のしたいことができない――と言っても、ペルセウスは 自分のしたいことが何であるのかを知らなかった。 自分が王でいられるのは、王大后カシオペアの権威と大臣たちの働きのおかげだということは わかっている。 本気で両陣営に逆らう気はない。その勇気はない。 だから、ペルセウスが“アンドロメダ”を彼の城に連れ帰ったのは、ごくごく ささやかな反抗心の現われにすぎなかった。 有力な王家の王女か しかるべき名門の令嬢をペルセウス国王の妻にと望む彼等の前で、王女や名門の令嬢どころか、記憶すらない美少女に 自分が好意を示す素振りを見せたら、彼等は さぞかし慌てるだろう。 その様子を見て、留飲を下げたい。 それは、本当に子供じみた我儘、子供じみた意地。ちょっとした悪ふざけだったのだ。 その拾いものに“アンドロメダ”の名を与えたのも、祖母への(ほとんど無意識の)当てつけにすぎなかった。 だというのに、まさか その美少女が少年だったとは。 拾ってきた美少女を 母アンドロメダが使っていた部屋に連れていき、母が残していった衣装を好きに使っていいと告げ、 「僕は男子です」 という答えを返された時、ペルセウスは その事実に驚愕し、自身の迂闊に 暫時 呆然とした。 呆然とし、だが、ペルセウスは 同時に 冷静になることができたのである。 そして、アンドロメダが男子だったおかげで、自分は祖母や大臣たちに 子供じみた当てつけをするという愚行をせずに済んだと、彼は安堵した。 だから、ペルセウスは、自分が愚か者になる事態を防いでくれたアンドロメダへの返礼として、記憶が戻るまで 王の友人として城に滞在する許しを、彼に(!)与えたのである。 行く当てのないアンドロメダは、ペルセウスの厚情に深い謝意を示してきた。 それでなくても 命の恩人。 その上、彼は 当面の衣食住の心配をせずに済むように手配してくれたのだ。 返礼も期待できない無一物の子供のために。 アンドロメダが彼に感謝するのは 至極当然のこと。 至極当然のことではあったのだが。 アンドロメダはエティオピア王家の事情を知らない。 アンドロメダがペルセウスに感謝するのは、彼が自分に親切にしてくれたから。 ペルセウスを自分の意のままに動く傀儡にしたいからでも、横暴な王大后に対抗する道具として利用したいからでもない。 どんな思惑もなく、純粋に、親切にしてくれた人間への感謝の念だけで 自分に接してくるアンドロメダの素直さ、単純さが、ペルセウスには快かったのである。 その上、アンドロメダの姿は 可憐な花のように美しく清楚。 所作や言葉は やわらかく、澄んだ瞳には 悪意や私欲、暗い影が 全く感じられない。 ペルセウスがアンドロメダを寵遇したのは――それもまた、至極当然の成り行きだったろう。 とはいえ、当人には至極当然のことが、他者にも至極当然のことと感じられるとは限らない。 やがて、ペルセウス王が 妻を迎えることに意欲を示さないのは、そちらの趣味があるからなのではないかという噂が まことしやかに囁かれるようになり、その噂は、アンドロメダがペルセウスの妻になり得ない性の持ち主と知って安堵していたカシオペアを 大いに慌てさることになったのである。 ペルセウスは 結局、祖母への当てつけに成功してしまったのかもしれなかった。 |