「母に会いたいという おまえの気持ちはわかるが、それは諦めた方がいい。いや、忘れるべきだ。死んだ者に心を残し、過去に囚われて――おまえは それでは いつまでも前に進むことができない」 カミュの言うことは正しいんだろうと思う。 カミュは、子供の俺より多くの経験を積んだ大人で、普通の人間には持ち得ない特別な力を持つ聖闘士で、未熟な聖闘士志願を 聖闘士に育て上げるために ここにいる指導者でもあるんだから。 カミュが正しくなかったら、俺が ここで聖闘士になるための修行をしてること自体が間違いで、無意味なことになる。 カミュは正しいし、正しくあってほしい。 でないと、俺が聖闘士になれないかもしれなくて、俺は それは困るから。 当然、カミュは正しい。 でも、人間の心っていうのは、正しいとか正しくないとか、得になるとか損になるとか、そんなことだけで割り切れるもんじゃないんだ。 カミュに、マーマのことは忘れろって言われるたび、俺は思い出す。 聖闘士になる修行のために シベリアに来る前、日本の いけ好かない金持ちの家で、ほんの1、2年を共に過ごした仲間とのやりとり。 泣き虫の瞬との やりとりを。 俺がシベリアに来て4年が経ってるから、あれはもう4年以上前のことになるのか。 「俺は うんと強くなって、きっと聖闘士になって、必ずマーマに会いに行くんだ」 聖闘士ってのは 普通の人間には持ち得ない力を持つ闘士のことで、聖闘士になれば 普通の人間にはできないことができるようになる――っていう大雑把な説明しか受けてなかった俺は、聖闘士になることの目的を そこに定めていた。 普通の人間には行き着けない東シベリアの海の底に沈んでいる船。その船の中で眠っているマーマに会いに行くことに。 たった一人の肉親が 氷の海に沈んでいくのを 何もできずに見ていることしかできなかった俺が、運命の非情だの 自分の無力だのに打ちのめされることなく、結構 前向きに生きていられたのは、その目的のおかげだった。 聖闘士になって、マーマに会いに行く。 マーマに会うためなんだから、俺はどんな つらい修行にも 理不尽にも 耐え抜かなきゃならない。 マーマに会うためなんだから、俺はどんな つらい修行にも 理不尽にも 耐えられる――。 だから、あの時、俺は至って前向きに、もしかしたら かなり明るく、瞬に 俺の聖闘士になる目的を語ったような気がする。 俺は、毎日のトレーニングを泣いて嫌がる瞬を元気づけてやりたかったし、暗い顔で そんなこと言ったら、瞬が ますます しおれちまうと思ったから。 俺が明るく言っても、瞬は あんまり明るくなってくれなかったけど。 「氷河のマーマは深くて冷たい海の底にいるんでしょう? 氷河、そんなところに行ったら、息ができなくて、身体が凍えて死んでしまうよ」 「だから、強くなるんだろ。聖闘士になれば、氷の海だって平気になるんだよ」 「そうなの……?」 あの時、俺の顔を見上げる瞬の目は、すごく不安そうだった。 それでなくても瞬は心配性で、危ないことが嫌いだったから。 でも、俺が自信満々で言うから、瞬は反対意見を言えないでいたんだろう。 瞬は、人の言うことに反対したり、逆らったりするのも嫌いだから。 というか、そんなことをして 人と争ったり、対立するのが嫌いだから。 瞬は本能的に そういうのを恐れてるんだと、瞬に会った最初のうち、俺は思っていた。 瞬の中には 争いを避けようとする遺伝子が組み込まれてるんだって。 でも、瞬の兄貴の一輝は、子供と大人の別もなく 手当たり次第に 人に突っかかっていって、自分から争い事を引き起こしてばっかりいるから、そのうちに、瞬の平和主義は遺伝の問題じゃないのかもしれないと思うようになった。 遺伝の問題でないのなら、それは 後天的環境的問題だ。 瞬は、自分の兄を反面教師にしてたのかもしれないし、一輝が やたらと攻撃的だから、役割分担で いつのまにか防御担当になってしまっていたのかもしれない。 人と対立することを極力避ける瞬は、でも、自分の意見がないわけじゃないんだ。 人と喧嘩をしないために、何も考えずに 頷いてばかりいるわけじゃない。 瞬は ちゃんと考える。 自分が勝つためにはどうすればいいのかってことじゃなく、嘘を言わずに 喧嘩にならないようにするにはどうしたらいいのかってことを。 瞬は、ちゃんと自分の意見を言うこともある。 無茶をして怪我した奴を諫める時とか、落ち込んでる奴を励まそうとする時とか、泣いてる奴を慰めようとする時とか、そういう時は瞬の独壇場で、他の奴等は口を挟めないし、挟まない。 そういうのは 誰だって、可愛い子に優しく言ってもらいたいから。 だから そういう時は、誰も瞬の言うことに逆らわないし、瞬の邪魔もしない。 当然だろう。 まあ、城戸邸に集められた子供たちの中で、いちばんたくさん泣くのは瞬だったけどな。 とにかく、瞬は何かを考え込む素振りを見せた。 しばらくしたら 考えがまとまったらしくて、瞬は顔を上げた。 そして、にっこり笑って言ったんだ。 「氷河のマーマは、氷河を守るために海の底に沈んで、今でも、氷河に強くなれ、頑張れって言ってくれてるんだね。優しいマーマだね」 って。 争い事を嫌いな瞬が、『聖闘士になれば、氷の海も平気になるとは限らない』って言って、俺の言い分に真っ向から逆らってくることはないだろうとは思ってたけど、瞬がマーマのことを そんなふうに言ってくれるとも思ってなかったから、俺は すごく嬉しくなって喜んで浮かれた。 マーマに会ったことがなくても、マーマが優しいことは 瞬にもわかるんだって思った。 「うん! うん、そうなんだ! それに すごく綺麗なんだ!」 瞬が嬉しそうに笑うのは、瞬自身に嬉しいことがあったからじゃない。 俺が嬉しそうに笑ったから、瞬も笑うんだ。 瞬は そういう奴だから。 「氷河は いつか マーマに会いに行くんだね。そして、マーマに『ありがとう』って言うんだね。強い聖闘士になった氷河に会ったら、氷河のマーマも嬉しいと思う」 瞬はそう言ってくれた。 瞬に そう言ってもらえて、俺はすごく嬉しかった。 瞬は絶対に嘘を言わない奴だから、瞬が本心から そう言ってくれてるのは確実だったし。 俺は 今でも憶えてる。 瞬にそう言ってもらえて嬉しかったこと、瞬の笑顔が すごく可愛かったこと。 そして、俺の顔を見上げてくる瞬の瞳が すごく澄んでて、すごく綺麗だったこと――。 カミュが正しいのなら、瞬は間違ってるんだろうか。 多分 そうなんだろう。 でも、瞬が間違ってるのは、瞬が子供だからじゃない。 城戸邸に集められた瞬以外のガキ共の意見は、おおむねカミュと同じだったから。 あいつらは、口を揃えて、 「死んじまった人間に会いに行ったってどうしようもないだろ」 って言った。 「海の底にいるってことは、つまり水死なんだろ。水死って、いちばん汚い死に方なんだぞ。身体が 水にふやけて膨らんで、ぶよぶよになるんだぞ」 「そうそう。綺麗に死ぬのなら、凍死がいちばんいいんだってさ」 物知り顔で、そんな ひどいことを言う奴もいた。 マーマは氷の海の底にいるんだから、凍死のようなもんだって、俺は思ったけど。 多分、世界中の人間全部で多数決をとったら、カミュの方が圧倒的多数派なんだ。 でも、多数派だから正しいとは限らない。 正しいことが嬉しいこととは限らない。 正しいから好きになれるとも限らない。 俺は、間違ってるのかもしれない瞬の考えの方が好きだ。 瞬の言葉が嬉しかった。 俺は、ちゃんとわかってる。 もし、俺が聖闘士になれなくて、マーマに会うこともできなかったら、俺は目的を叶えることができなかった人間になるんだ。 人生の敗者ってやつに。 期待して、希望を抱いて、夢を見て、それが叶わなかった時、人は絶望するだろう。 生きる気力だって 失うかもしれない。 大人だの、多数派だのは、そうならないように、夢を見すぎるなって言ってくれてるんだ。 期待しすぎて傷付かないように、用心しろって。 わかってるんだ。 正しいのはカミュの方だってことは。 でも 俺は、瞬の言葉や瞬の考え方の方が好きなんだ。 |