『駄目! 氷河、駄目だよ。その人はそのままにしておいて。それは魔女だから。悪い魔女だから』
俺の知らない声なんだ。
優しくて清らかで、どっかで聞いたことがあるような気もしたけど、知らない声。
なのに、なぜだか 俺には、それが瞬の声だって、すぐにわかった。
瞬の声、瞬の言葉だってことが、すぐにわかった。

「瞬? これが悪い魔女なのか? ほんとは蛇の魔女なのか? でも、こんなに綺麗で清らかで優しそうで――」
瞬には、俺が見てるものが見えてるみたいだった。
でも、俺には、瞬が見てるものも、瞬の姿も見えない。
瞬の声が聞こえるだけだ。
でも、それが瞬だってことはわかる。
瞬の“感じ”だ。
これは瞬の“感じ”だ。
優しくて、可愛くて、あったかい、瞬の“感じ”。

『それは、氷河の心が 綺麗で清らかで優しいものを求めてるからだよ。その魔女は、人間の欲しいもの、求めるもの、見たいものの姿を映し出すの。そうして、その人に自分の封印を解かせようとするの』
「でも、それならマーマを見せるはずだろ」
それは、俺の素朴な疑問。
当然の疑問だった。
俺は 確かに、この美少女を綺麗だと思って、くらくらして、助けてやりたいって思ったけど、でも、それは たまたまそう思っただけで、もともと知らない人なんだから、俺が どうでもいいって思う可能性だってあっただろ。
それなら、マーマを見せた方が 断然 確実に目的を果たせるような気がするんだけど。

瞬が すぐに答えを返してこないのは、瞬が俺の知ってる通りの瞬だから。
行き当たりばったりの俺や星矢と違って、瞬は慎重派なんだ。
『それは――氷河のマーマは北の海にいるから……。ここで氷河に氷河のマーマの姿を見せたら、氷河はそれを偽物か幻影なんじゃないかと怪しむでしょう。でも、知らない人なら、偽物だなんて思わない。氷河は助けてあげようって思う。悪い魔女は、氷河に そう思わせようとしたんじゃないかな』
瞬が そう言うなら、そうなんだろう。
瞬が このまま放っとけって言うのなら、俺は そうするけど――。

「でも、俺は こんな人 知らないのに、悪い魔女は どっから この美少女を持ってきたんだ?」
俺の素朴な疑問 第二弾。
瞬の返事は、今度は早かった。
『氷河の心の中にある理想の人なのかもしれないよ』
俺の心の中の理想?
俺の理想はマーマだけど、でも、マーマはマーマだから、理想の彼女ってことかな。
そう言われると、そんな気がする。
俺、くらくらしてたし。

「俺の理想の人かあ……。そうかもしれない。綺麗で可愛くて、悪いことや 意地悪なこと 絶対に考えなさそうな――」
いや、そんなことはどうでもいい。
魔女は放っとくことにして、そんなことより。
「なんで、おまえの声が聞こえてくるんだ?」
そっちの謎の方が、ずっと重要な大問題だ。
『僕にも、どうして氷河に見えているものが 僕に見えてるのか わからないの。小宇宙のせいなのかな……』
「小宇宙?」

小宇宙ってのは、人間の体内にある宇宙的エネルギーのこと――だとか何とか、カミュが言ってたけど、要するに、ものすごい やる気とか、気合いとか、根性とか、そんなもんだと思う――っていうか、俺は そう思ってた。
小宇宙のせいで、ここにいない瞬の声が聞こえるのなら、小宇宙ってのは 案外 使える力なのかもしれない。
俺が見てるものが瞬に見えてるのに、俺には 瞬の声しか聞こえないってのは、瞬より俺の小宇宙の力が弱いからなのかもしれない。
それはカッコ悪くて、ちょっと嫌だ。
俺より強い瞬なんて、想像できないけど。

「おまえ、今、どこにいるんだ」
ほんとに瞬が俺より強い筋肉マンになってたら どうしようって、ちょっと不安な気持ちで、俺は瞬に訊いた。
頭の中に、
『アンドロメダ島の浜辺――海の中』
って答えが返ってくる。
「おまえも?」
瞬も?
「おまえも海の中に会いたい人がいるのか」
そんなはず、ないよな。
『そうじゃないけど……』
「そうじゃないけど?」

瞬は俺に そんなこと 訊かれたくなかったのかもしれない。
でも、訊かれたら、答えないわけにはいかないし、答えるなら嘘は言えない。
瞬は、嘘をつけないんだ。
自分のためには。
俺なら、カッコつけたり 強がったりするために、見えを張って嘘をつくこともあるけど、瞬は そんなことしない。
だから俺は、それが瞬の言うことなら何だって すぐに信じるんだ。
っていうか、信じられる。

「つらいことがあって、泣いちゃうと悲しくなるでしょう。だから、僕、泣きたくなったら、泣かないために海に飛び込むの。そうすれば、涙と海の水の区別がつかなくなって、涙が見えなくなるから」
嘘をつけない瞬の答えは、もちろん ほんとのこと。
その“ほんとのこと”を聞いて、俺は ちょっと安心した。
瞬が俺より強い筋肉マンには なってなさそうだったから。
うん。もちろん、俺は ちゃんと瞬のこと心配したぞ。
俺の方が強いんだから、それは当然のことだ。

「つらいことがあったのか」
『――みんなに会いたいなあ……って思っただけ。それで 海に飛び込んだら、氷河が南の海っぽいところにいるのが見えたから、びっくりしちゃった。海は みんな つながってるからなのかな。僕は 聖闘士になれるかどうかもわからない みそっかすだから、小宇宙の力が足りなくて、近くじゃないと、氷河と こうして お話ができないのかもしれない……』
そうなのかな?
でも、だとしたら、それは俺の小宇宙の力も弱いってことで、筋肉はともかく 小宇宙の力は、瞬より俺の方が弱いような気がする。
でも、まあ、確証のないことは瞬には言わないでおこう。

『氷河は会いたい人はいないの?』
瞬の“つらいこと”は、みんなに会えないこと。
多分、一輝に会えないことなんだろうな。
俺、一輝は瞬に似てないから、あんまり好きじゃないけど。
瞬は好きだけど。
「おまえに会いたい。マーマ以外で、俺が会いたいのは おまえだけだ」
瞬が正直だから、瞬と話してると、俺も(少し)正直になる。
瞬の切なげな“感じ”が俺に伝わってきて――でも、瞬はすぐに その切ない“感じ”を振り払った。

「じゃあ、聖闘士になって、日本に帰ってきて。僕も必ず帰るから」
瞬は、もしかしたら、俺と話ができたから元気になったのかな。
そう思ったら、なんか俺も やる気が出てきた。
「うん! うん、本物のおまえに会えるなら、こんなのマーマでも何でもないし、どうでもいいや」
って言って、俺は悪い魔女の美少女の方を ちらっと見たんだ。
蛇の蛇だの、悪い魔女だの、俺には もうどうでもいいことになってて、ほんとに どうでもいいやって思いながら。
そしたら――俺が もうどーでもいい目で見た途端、あのキヨラカな美少女が、悪い魔女どころか、醜く引きつった顔の おっさんに変わった。

「うわあっ!」
俺は まじで驚いて、白い海底神殿の中で、反射的に後ずさった。
もう一度 確かめようとして、祭壇の側に歩み寄っていったら、あの棺も 不気味なおっさんも キヨラカな美少女もいなくて、そこには半分以上崩れた祭壇があるだけだった。
その遺跡が少しずつ水に沈もうとしている。
魔女の不思議な力が消えたのかもしれない。

「あれは幻だったのか……?」
海水が、もう俺の膝まで来てる。
「でも、僕にも見えてたよ。多分、氷河の目を通してだと思うけど……綺麗で若い女の人だよね?」
「うん……」
俺と瞬は、同じものを見てた――んだと思う。
けど、それは偽物で、幻で、でも、俺には そんなことはもうどうでもよくて、瞬ともっと話をしてたくて――。

「カミュの調査は明日には終わって、俺、明日にはシベリアに帰るんだ」
海水の勢いが すごく強くて、俺の足は もう床についてなかった。
この海底神殿が 全部 水に浸かったら、多分、俺と瞬は そうして小宇宙で やりとりすることもできなくなる。
それが わかるから、俺と瞬は急いで『さよなら』を――いや、『またね』の挨拶を交わしたんだ。

『今度 会う時は日本だね』
「うん。瞬、寂しくても、泣くなよ! 泣いてもいいけど、死ぬなよ!」
すごく慌ただしくて、しょーもない『またね』だったけど、俺は、瞬の“感じ”が明るく元気になったような気がして、それが嬉しかった。

瞬。
瞬に会うこと。
俺が聖闘士になる目的に、それも付け加えておこうって、南の海の生温い水の渦の中で、俺は思った。






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