オリュンポス山は、テッサリア平原の北東にある。
ギリシャ最高峰。
その高さ以上に 峻厳さによって、人間の侵入を拒む山。
頂にはオリュンポス神殿があり、そこでは オリュンポス12神をはじめ多くの不死の神々が“人間のように”暮らしていると言われていた。

星矢たちが その麓に到着したのは、彼等が聖域を出て3日後の午後のことだった。
結局、聖域からの追っ手は、星矢たちに追いつくことができなかった。
黄金聖闘士が追っ手を率いることがあれば、追いつかれずにオリュンポス山に着くのは至難と案じていたのだが、そんなことにはならずに済んだ。
おそらく 教皇が、聖域の守りを固めることの重要性でも説いて、黄金聖闘士を追っ手に加えなかったのだろう。
黄金聖闘士以外の聖闘士や雑兵たちには、オリュンポス山に足を踏み入れるような無謀はできないだろうから、神域に入れば、神以外の邪魔は入るまい。
そう考えて、星矢たち一行が 神々の住まうオリュンポス山に最初の一歩を踏み入れた時、
「そこの一行! 聖域の者と見たが、どこに行く」
という、かなり品性を欠いた胴間声を響かせてきたのは、であるからして 当然、オリュンポスの神族の一柱――と思われた。

顔立ちは それなりに整っているのだが、声同様 品性を欠いた粗野な印象。
そうではないことを祈るが、彼は、脂ぎった筋肉質の裸体に直接 鎧をまとっている――ように、星矢たちの目には見えた。
鎧の材質は皮でも青銅でも鉄でもない、赤銅色の金属。
身体の部位の あちこちが 鎧と 擦れて痛くはないのだろうかと、(老婆心で)星矢は(つい)思ってしまったのである。
人間(神)の美しさというものは、顔の造作そのものより、そこに にじみ出る人間性(神性)によって決まるのだと、どんな疑いもなく信じてしまえる容貌の男――神。
神の年齢を語ることは無意味だろうが、彼は 人間でいうなら30歳前後の男の姿をしていた。

「今から山登りしようって人間に、どこに行くも何もあるかよ。つーか、あんた、誰だよ」
かなり強そうなのだが、どうしても尊敬できない風貌の男である。
問われたことに答える星矢の口調は、思い切り ぞんざいになってしまっていた。
その対応を神への不敬とするのは、星矢に気の毒だろう。
不敬も何も、とにかく敬意を払いたくない雰囲気を持つ男だったのだ、彼は。
品性のかけらも感じられない男は、意外や素直に自分の名を名乗ってきた。

「俺は、オリュンポス12神の一柱、軍神アレス様だ。恐れ入って、瞬を俺に渡せ」
「はあ !? 」
瞬の名を知っているところからして、既に目いっぱい怪しいが、自分で自分に“様”をつけるのは“怪しい”以前。
自分で自分を馬鹿と表明しているようなもの。
彼が神でなく人間だったとしても、絶対に知り合いになりたくないタイプの男である。
星矢が響かせた素頓狂な声が 完全に消える前に、脇から氷河が 怒声を割り込ませてきた。

「ふざけるな! 軍神アレスといえば、アテナとは正反対、能無しで粗野粗暴、乱暴狼藉者の代名詞の神だろう。戦いの神のくせに、脳足りん人間のヘラクレスにぼろ負けした、オリュンポス屈指の大馬鹿野郎じゃないか。そんな男に、なぜ瞬を渡さなければならないんだ!」
瞬を背後に庇い、氷河が口にしたことは すべて事実で、決して ゆえなき誹謗中傷ではなかった。
だが、人というものは(おそらく 神も)、事実を あげつらわれた時に 最も腹を立てるようにできているもの。

「人間の分際で、神に逆らうか。大人しく、瞬を俺に渡せ!」
本当のことを言われたアレスが激怒して、自分に攻撃を仕掛けてくる可能性に思い至らず、思ったことを そのまま口にしてしまうあたり、氷河は、脳足りんさで、ヘラクレスの人後、アレスの神後に落ちない男だったろう。
見るからに直情径行の軍神は、中身も その見掛け通りであるらしい。
氷河の言いたい放題に烈火のごとく怒ったアレスは、超光速で、氷河に攻撃を仕掛けてきた。
超光速のげんこつを、氷河に食らわそうとしたのである。
怒りのせいで辺りが見えなくなっているのか、その拳の威力が瞬にまで及びそうになる。
アレスの攻撃から瞬を庇った氷河は、右肩にアレスの拳を まともに受け、肩の骨が 少し砕けたようだった。

思慮が足りず 腕力に優れた男に 力押しすることほど 馬鹿な対応はないと呆れ、紫龍は 顔をしかめた。
自身の愚行を愚行と認識していないらしい氷河が、瞬の身を案じる。
「瞬、大丈夫か」
「氷河っ!」
大丈夫でないのは氷河の方である。
紫龍は――星矢も――氷河の負傷は自業自得のような気もしたのだが、瞬は、自分を庇って傷付いた氷河を見て、悲鳴をあげた。
「ふん。大口を叩きおって、口ほどにもない」
勝ち誇った様子で瞬を掴まえようとしたアレスの前に、再度 氷河が立ちふさがる。
この状況なら、氷河より瞬の方が はるかに強かったろうが、氷河は その事実――事実だろう――に気付いていないようだった。

聖域からオリュンポス山の麓まで、聖闘士の足で3日。
聖域からの追っ手にも捕まらず、順調すぎて恐いほどだった青銅聖闘士たちのアテナ直訴計画。
百里を行く者は、九十里を半ばとすべし。
自分たちの計画を妨げるものは、人間界ではなく 神域にこそあったのだと、事ここに至って――アレスの登場によって――星矢たちは知ることになったのである。

軍神アレスと白鳥座の聖闘士が睨み合う。
それは おつむの出来が どっちもどっちなだけに、どう 決着がつくのか予測もできない対戦カードだった。
ここは いっそ、氷河をアレスと共に この場に残し、残りのメンバーだけでオリュンポス神殿を目指すべきなのではないかと、紫龍と星矢は考え始めていたのである。
なにしろ、友の屍を乗り越えて先に進み、最後の一人が目的を果たす――というのが、青銅聖闘士たちの戦いの王道的展開なのだ。
その方が効率的でもある。

効率を優先させることにした星矢と紫龍が、『じゃあ、そういうことで』と視線を見交わし合った時、だが、思いがけず、そのバトルには あっさり決着がついてしまったのである。
アレスと氷河のバトルで勝利を手中に収めたのは、だが、アレスでもなく、氷河でもなく、突然 そのバトルに割り込んできた完全完璧な部外者だった。






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