当日は、ナターシャの日頃の行ないがよかったせいか、見事な梅雨晴れになった。
梅雨の真っ只中とは思えない晴天。
湿度も低く、海に繰り出すには最適の天候。
その晴れた空を見た時点で、瞬は 自分の中にあった よくない期待を切り捨てたのである。
ナターシャは、海を見るためになら、チャイルドシートの束縛にも耐え抜くだろう。
ナターシャと海の出会いを妨げることはできない。
それが確定事項なら、少しでもナターシャに楽しんでもらうことを考えた方がいいと、瞬は思い直した――そう 思うことにしたのである。

瞬の予想通り、ナターシャはチャイルドシートの束縛に耐えてみせた。
岬を巡って、車窓に海が見えてきた時、
「ウミーっ !! 」
車中に響いたナターシャの弾んだ声。
「オオキイ! アオイー! きらきらしてる! パパみたいーっ!」
ナターシャの明るく嬉しそうな歓声を聞いた時、すべては杞憂だったようだと、瞬は安堵の胸を撫で下ろした。
途中 サービスエリアに立ち寄った際に 氷河と運転を交代して、ちょうど運転中だった瞬は、海を見て喜ぶナターシャの姿をゆっくり見ていられないことを残念に思いさえしたのである。

梅雨の真っ只中だというのに快晴。
だが、梅雨の真っ只中の平日なので、浜辺に人影は少ない。
水温も、海水浴をするには まだ低く、海に入っている者もいない。
波の音を消し去るほどの人の声もなく、人工的な音もない。
この時期に 海を楽しむには 最高のコンディションだった。

駐車場に車を置いて、浜に向かう。
砂浜に下りると、ナターシャは波打ち際に向かって駆け出し、水色のサンダルを履いたまま、その足を海水に浸した。
「あんまり 深いところに行っちゃだめだよ。波打ち際では、波だけじゃなく砂も流れるの。深いところに行くと、砂に足を取られて立っていられなくなるからね」
「ナターシャ、あんまり深いところには行かないヨー」
ナターシャが、マーマの言いつけを復唱する。
ナターシャはパパやマーマの言いつけを守る いい子なので、瞬も その点は安心していた。

問題は いつも氷河の方。
ナターシャは、その可愛らしさで、パパを味方につける術を心得ているのだ。
「マーマ、お膝までならいい? パパと手をつないで」
『ほうら、来た』と、言葉にはせず、瞬は胸中で苦笑したのである。
瞬が『だめ』と言っても、氷河が『俺がついているから』とナターシャの肩を持つ展開が、瞬には容易に予測できた。
だから 瞬は、『だめ』と言うステップを省略して、
「氷河と一緒ならね」
と、ナターシャに答えたのである。

が、瞬の予測は、思いがけない方向に 外れることになった。
「氷河、靴を脱ぐ?」
と、娘に甘いパパに 瞬が尋ねたところ、氷河は それを渋ったのだ。
「いや、俺の美学的にはだな。俺の脛なぞを さらすより、おまえとナターシャが一緒に素足で波打ち際を歩く姿を眺めて、その絶景に感動したいんだが」
「氷河の美学って、それ、どこから出てきたものなの」
「どこからも何も、ごく一般的な美意識だと思うが」
どうやら今の氷河は、“娘に甘い父親”モードではなく、“我儘な恋人”モードに入っているらしい。

パパとマーマの言うことを聞く いい子のナターシャは、波打ち際に立って、自分と手をつなぐオトナがやってくるのを待っている。
ナターシャの髪と白いフレアスカートが風に揺れ、水色のサンダルを履いたナターシャの足には、白いしぶきを生みながら 波が戯れている。
氷河の美学に協力したい気持ちは まるで湧いてこなかったが、ナターシャの隣りに寄り添う者にはなりたい。
結果的に氷河の我儘を叶えることになってしまうが、それも やむなし――と、瞬が考え始めた時だった。
波打ち際で 手をつなぐオトナを待っていたナターシャが、瞬たちの方に駆け戻ってきたのは。

寄せては引く波。
ナターシャに近付き、遠ざかることを繰り返していた波。
ナターシャを刺激したのは、水に触れた感触より、波の音の方だったかもしれない。
地形の問題なのか、浜の砂の性質の違いなのか、瞬がアンドロメダ島で聞き慣れた波の音とは違う音。
周波数が合っていないラジオのノイズに強弱がついているような奇妙な波音。
それは正しく ノイズ――雑音だった。
ナターシャの人生に関わるべきではない邪魔な音。
ナターシャは その音に怯えている――ように見えた。

「ナターシャちゃん?」
あんなに見たがっていた海に背を向け、瞬たちの許に戻ってきたナターシャは、両手で瞬の左の手を掴み――むしろ、しがみつくようにして――自分の視界から海の姿を消そうとしていた。
「マーマ、ウミには何があるの。誰がいるの……」
「え?」
海を見ないことはできるが、波の音を聞かずにいることはできない。
「それはカニさんやヒトデさんや……」
「チガウ」
「ナターシャちゃん?」
「チガウ……。違う何かがいる……」
ナターシャの声から、子供らしい抑揚が消えている。
目でも耳でもない――画像でも音でも何かが、ナターシャに力を及ぼしているようだった。

「氷河。帰ろう。ナターシャちゃんに海はよくない」
「しかし、あれは俺の絶対零度の氷球に封じられて――」
氷河が ワダツミの名を口にしなかったのは、その名を ナターシャに聞かせたくないからだったろう。
氷河が作った絶対零度の氷球は、物理的には完璧な檻である。
だが、ワダツミは単純な物質ではなかったのだ。

「ウミにいる何かが、ナターシャを呼んでる……。ナターシャ、コワイ……ナターシャ、コワイヨ……」
「氷河。海から離れよう」
「ああ」
瞬に頷く氷河の目も、厳しさを帯び始めていた。

ワダツミと海とナターシャ。
その三者が共鳴しているのだろうか。
アクエリアスの氷河が作った完璧な檻すら ものともしない力が、時空を超えて 何かをしようとしている。
瞬は、そんな気がしてならなかった。

ワダツミの力そのものは恐るるに足りないのである。
バルゴの瞬とアクエリアスの氷河が揃っているのだ。
池袋の時とは異なり、“事件”にすることなく――誰にも知られず――ワダツミを無力化することは容易だろう。
瞬が恐れるのは、ワダツミがナターシャの身体を利用すること。
ワダツミがナターシャの心を壊すことだった。
そんなことになったら、無力化されるのは、ナターシャではなく、ナターシャのパパの方なのだ。






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