ワダツミは、瞬が驚くほど あっけなく消滅した。 多少の抵抗はするだろうと思ったのに、ワダツミは それもしなかった――抵抗しようとする意思さえ見せなかった。 その消滅には手応えもなく、瞬は そのために 大きな力も要しなかった。 だが、その力はナターシャの小さな身体を壊すには十分で――。 ワダツミの意思が消えたナターシャの身体が、その場に崩れ落ちる。 「マーマ……」 ナターシャの唇から、ナターシャの言葉が零れる。 「ナターシャちゃんっ!」 その時 瞬には、ワダツミが何をしようとしていたのかが、初めて わかったのである。 ワダツミは、黄金聖闘士であるアクエリアスの氷河の力を知っていたはずだった。 アクエリアスの氷河の力が、自分の力とは比較にならないほど強大なものだということを。 ワダツミの目的は、アクエリアスの氷河を倒すことではなかったのだ。 ワダツミの目的は、ワダツミを圧倒的な力で封じたアクエリアスの氷河に復讐すること。 正しく復讐すること。 自身の消滅にナターシャを巻き込めば、ナターシャを愛する者が嘆き苦しむことを、ワダツミは知っていた。 だからこそ、ワダツミは、自分の消滅と共に、ナターシャの身体にナターシャの意識が戻るように仕組んだに違いなかった。 「マーマ……」 ワダツミがバルゴの瞬を そう呼ぶはずがない。 ワダツミは間違いなく消滅した。 今、海風に震える小さな浜昼顔の花のように力ない声で“マーマ”を呼ぶ少女は、間違いなく 氷河の愛する彼の娘だった。 「ナ……ナターシャちゃん……」 「ゴメンナサイ、マーマ。ナターシャ、悪い子 になっちゃった……」 「ナターシャちゃん! そんなことない……! そんなことないよ!」 ナターシャの姿が、涙で見えない。 ここにいるのは、氷河のナターシャ。 素直で可愛い、誰よりもパパが大好きな、氷河の小さなナターシャだった。 「パパ……パパ……」 ナターシャの大好きなパパ。 彼女は その小さな手を 氷河の方に向かって差しのべた。 「ナターシャ!」 崩れるように その場に膝をついて、氷河が その名を呼ぶ。 大切な、大切な、その名を呼ぶ。 ナターシャの小さな手は、大好きなパパを求めて、懸命に宙に向かって のばされていた。 だが。 氷河の手に触れる前に、それは 力を失い、ぱたりと下に落ちてしまったのである。 「ナターシャちゃん !? ナターシャちゃん !? だめだよ……そんな……だめ……」 そんなことになったら、氷河が悲しむ。 僕が悲しい。 氷河が悲しんでいると、僕が つらい。 ナターシャが つらいと、僕が悲しい。 アテナの聖闘士としても、医師としても、一人の人間としても、人間の死には 幾度も出会ってきた。 人間の死を 幾度も経験してきた。 だが、一つの命が消えることが、これほど悲しく、これほど つらく、これほど痛かったことはない。 瞬の胸は 張り裂けてしまいそうだった。 「瞬」 氷河が、ナターシャの命を奪った人間の名を口の端にのぼらせる。 それは、非難なのか慰撫なのか。 ナターシャの命が消えてしまった。 ナターシャの笑顔が消えてしまった。 氷河の幸福が消えてしまった。 「いやあぁぁっ」 「瞬っ!」 いったい それは誰の悲鳴だったのか。 自分の悲鳴が、遠くに聞こえる。 氷河の愛するナターシャを愛していた。 それ以上に、ナターシャ自身を愛していた。 なのに。 小さな水色のサンダルは波にさらわれ、取り戻せないところに 流されてしまっていた。 |