「氷河……あれは夢じゃなかったの」 水色のサンダルは失われた。 それは客観的な事実である。 だとすれば、ワダツミとの戦いは夢ではなかったことになる。 三人で出掛けていった熱海の海。 ワダツミが現われ、戦い、倒したこと。 バルゴの瞬がナターシャの命を奪ったこと。 それらのこともまた、客観的な事実だったことになるのだ。 何も言わず、何もせずにいれば、この“おかしい”世界で、これまで通り、平和に幸福に暮らしていられるのかもしれないのに、瞬が氷河に真実を尋ねたのは、それでも自分は真実を知るべきだと思ったから。 そして、罰を受けたかったから。 ナターシャの側にいる資格が自分にあるのかどうかを確かめるためでもあった。 あれが夢でなかったことを知っているはずの氷河は、嘘や欺瞞の嫌いな彼らしい、いつも通りの鋭く青い目で、 「何のことだ」 と、瞬に反問してきた。 「僕はナターシャちゃんを殺したの」 「瞬。何を言っているんだ。ナターシャは ここにいる。ナターシャ!」 氷河が隣室にいたナターシャを呼んだのは、その話をナターシャの前で続けることは 瞬にはできない――と考えてのことだったろう。 もちろん、ナターシャに そんな話は聞かせられない。 ナターシャの“マーマ”がナターシャの命を奪った。 そんな話を、ナターシャの前でできるわけがない。 だが、ナターシャの前ではできない話をしている場に、氷河がナターシャを呼んだせいで――ナターシャを遠ざけようとせず、あえて呼んだせいで――瞬には、氷河の意図がわかってしまったのである。 氷河は、“あったこと”を“なかったこと”にしようとしているのだと。 ナターシャは、やはり バルゴの瞬によって 殺されてしまったのだ――と。 では、今、生きて、氷河の手を握りしめ、バルゴの瞬の顔を不安そうに見詰めているナターシャは何者なのだろう。 瞬には、氷河とナターシャが幻に見えた。 狂っているのは 自分の方なのか。 そうであったら どんなにいいだろうと、瞬は思った――願った。 「この世界は何 !? ナターシャちゃんが死んでいない、この世界は何なの!」 時間は過ぎている。クロノスの力で過去に戻ったわけではない。 では、ここは異世界なのだろうか。 まやかしの世界。 偽物の世界。 「僕に嘘を見せてるのっ !? 」 バルゴの瞬が狂っておらず、バルゴの瞬が ナターシャの命を奪ったことが事実であるなら、そういうことなのだとしか思えない。 この世界の一部が嘘なのだ――おそらくは“生きているナターシャ”が。 瞬の疑いを、氷河は否定しなかった。 「俺は……俺は、おまえの瞳を曇らすことはできなかったんだ。おまえの瞳を澄んだままにしておくためになら、俺は どんな無理も通す」 氷河が、苦しそうに、説明になっていない答えを返してくる。 ナターシャが、そんな氷河を庇い――そして、彼女のマーマを庇った。 「マーマ。マーマは悪くないヨ。ナターシャが悪いコだったの。パパにひどいこと しようとしたの」 「ナターシャちゃん……憶えてるの……」 では、このナターシャは まがい物ではないのか。 あの熱海での出来事を記憶しているナターシャ。 今 悲しそうな目をして バルゴの瞬の顔を見上げているナターシャは、本物のナターシャなのだろうか。 「ここは過去でも異世界でもない。嘘でも まやかしでもない。俺たちの世界、俺たちの時間の流れの中だ。ナターシャの命だけ、パラケルススに再生してもらった。ナターシャの心はナターシャのままだ」 「……でも、そんなはずは――」 「ワダツミの意思を縛っておけなかったのは聖域のミスだということで、アテナも力を貸してくれた。ワダツミが現われた痕跡を消し、病院の方の根回しをし――」 「沙織さんの手まで煩わせたの……!」 彼女なら、そんなこともしてくれるだろう。 彼女には その力があり、何より彼女は 彼女の聖闘士を愛してくれている。 「でも、なぜ……」 なぜ 氷河は、アテナは、ナターシャは――そんなことをしたのか。 そんなことをする必要があったのか。 ナターシャが ナターシャの心を持って ナターシャとして蘇ることができたのなら、それは幸いなことで、隠すようなことはない。 事実を、バルゴの瞬に伝えればいいだけである。 小細工はいらない。 バルゴの瞬を騙すようなことはしなくてもいいはずである。 だが、氷河にとって、それは“しなければならない”ことだったらしい。 「おまえに あの時の出来事を夢だと思わせるために、ナターシャと芝居を打ったんだ」 「ど……どうして……」 「おまえが傷付いて、悲しんで、自分の愛と戦いを信じられなくなりかけているようだったから……。おまえの瞳が、濁りかけていたから……」 「あ……」 『瞬の瞳を濁らせてなるか』 バルゴの瞬が、目を開けているのに光を捉えられずにいた あの時、聞こえてきた氷河の声。 氷河は、バルゴの瞬の澄んだ瞳を守るために こんなことをしたのだ。 『ナターシャは蘇った』と事実を告げるだけでは、バルゴの瞬の瞳を澄んだままにしておくことができないと思ったから。 「ナターシャ、お芝居、ヘタだった?」 ナターシャが心配そうに“マーマ”の顔を見上げてくる。 心配そうに――だが、ナターシャの瞳と表情は明るかった。 『子供に芝居を強いるなんて』と、瞬は 氷河を責めようとしたのである。 だが、瞬は そうするのをやめた。 氷河を責める資格は 自分にはないと思ったからではない。 氷河がナターシャに芝居を強いたのは、ナターシャのためだったのだと気付いたから。 “マーマのための芝居をする”という仕事を与えることで、氷河は、パパとマーマを苦しめる悪い子になったことを後悔する時間を、ナターシャに持たせまいとしたのだ。 「そんな……無理だよ。あれを夢だったことにするなんて」 “地上の平和を守るため”。 大層な大義はあったが、そのために瞬は 多くの命を奪ってきた。 それでも濁ることのなかった瞳が濁りかけるほどに 衝撃的な出来事。 それを“なかったこと”にするのは、さすがに無謀な企てである。 だが 氷河は――そして ナターシャも――その無謀を本気で成し遂げようとしていたらしかった。 「ナターシャとパパで、マーマを守ろうって約束したんだよ」 「ナターシャちゃん……」 「ナターシャ、もうゼッタイに悪いコにならないから、マーマ、泣かないで」 ナターシャには、瞬の瞳の奥の涙が見えていたのだろうか。 瞬は まだ 泣いていなかったのに。 「泣かないでだなんて……。そんなの無理だよ、ナターシャちゃん」 瞬の乾いた瞳を涙で潤してくれたのは、瞬に『泣かないで』と告げるナターシャの心だった。 小さなナターシャが、その小さな身体に どれほど大きな優しさを育んでいるのか。 健気で、悲しいほど強いナターシャ。 涙を隠すために、瞬は ナターシャの小さな身体を抱きしめた。 「ごめんね、ナターシャちゃん。僕は、ナターシャちゃんと氷河を守り切れなかった……」 「パパとマーマはナターシャを守ってくれたヨ。パパとマーマのココロが、ナターシャのココロをパパとマーマのところに引きとめてくれたんだヨ。パパとマーマのところにいなきゃ、ナターシャは幸せになれないって、ナターシャにはわかったの」 ナターシャの小さな手が、瞬に温かさを運んでくる。 バルゴの瞬が幸せになれる場所も、氷河とナターシャのいるところだと、瞬は思った。 「次はないそうだ。ナターシャは ぎりぎりのところで命を保っている。ワダツミは 人間ではないから、完全に消滅させることはできていないかもしれない。もし ナターシャがまたワダツミに支配されるようなことがあったら、その時にはナターシャを倒せ」 「氷河……」 氷河が、そんなことを言うとは。 しかも、ナターシャの前で。 瞬は少なからず驚き、ナターシャの気持ちを案じもしたのだが、それは 氷河がナターシャを愛しているからこその言葉で、そして、ナターシャを信じていればこその言葉だった。 「ナターシャは、もうマーマを泣かせる悪いコにはならないそうだ。絶対に」 「ナターシャ、絶対に ナラナイヨー」 「ナターシャちゃん……」 情けないほど娘に甘い父親だと思っていたのに――実際、甘すぎるほど甘い父親なのに――氷河の愛は、それが真実のものであるがゆえに、ナターシャを素直で強く優しい少女に育てている。 自分も こんなふうに育ててもらったと、瞬は、ふと、相変わらず放浪癖の収まらない兄の面影を思い出したのである。 おそらく 氷河は、だから 今、安心してバルゴの瞬を甘やかすことができているのだ。 人の命には 限りがあり、だからこそ大切で、命の流れも時の流れも 二度と経験することはできない。 たとえクロノスの力を借りて過去に戻ることがあっても、それは同じ過去の時の流れではない。 ナターシャと氷河と一緒にいられる この時間が、どれほど美しく価値あるものであることか――。 「僕も命をかけて、ナターシャちゃんと氷河を守るよ」 「地上の平和を守れば、パパとマーマとナターシャは いつまでも一緒にいられるヨネ」 ナターシャは、乙女座の黄金聖闘士より深く、地上の平和を守ることの意義と意味を知っているようだった。 「うん……うん、そうだね」 愛という名の小宇宙が、地上世界と愛する人たちの心を守る。 アテナの聖闘士たちは、そのために この世界に存在するのだ。 Fin.
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