「僕が氷河の代わりに永遠の眠りに就きます。どうか氷河を目覚めさせてください」
四人の王と自分の間に絆を築く機会を与えてくれた女神アテナに、瞬が そう願ったのは 他に頼れるものがいないからだった。
地上の平和を願う戦いの女神アテナなら、氷河が目覚めないことが この世界にとって いかに危険なことであるかを知り、その危険を消し去るために 力を貸してもらえるだろうと思ったから――期待したから。

聖域の万神殿。
氷河が永遠の眠りに就いている寝台の前で祈った瞬の前に現れた女神アテナの回答は、だが、残念ながら 瞬が期待したものではなかった。
女神アテナは、
「ごめんなさいね、瞬。あの神託は、私にはどうすることもできないの」
と答えてきたのだ。
「あの神託は、私ではなく、愛の女神が下した神託だから」
と。

「愛の女神?」
「なぜ 愛の女神なんだ。政治にも王権にも およそ関わりのない神じゃないか!」
突然 瞬の背後から響いてきたのは、瞬の兄の声だった。
星矢と紫龍が その後ろに立っている。
永遠の眠りに就いている氷河の身を守っていたのか、あるいは 瞬が馬鹿なことをしでかさないように見張っていたのか――ともかく、彼等は そこにいた。

「何を言うか。無分別な人間たち。政治も王権も――否、人間の営みのすべての根本にあるのは愛。愛の女神である私が関わらない事象など、この世界には何一つ存在しない」
そう言って 瞬たちの前に“真打ち登場”とばかりに姿を現わしたのは、もちろん 愛(欲)の女神。
三人の王たちは 揃って何か言いたげな顔になったが、愛(欲)の女神の機嫌を損ねないために、彼等は 賢明にも沈黙を守った。
アテナが、神と人間の間を執り成すように、静かに言葉を紡ぐ。

「瞬。あなたが氷河を目覚めさせることのできなかった理由を 正直に彼女に告白したら、氷河は目覚めることになっているそうよ。その理由を、あなたは既に知っているのでしょう?」
アテナの言う通り、既にその答えはわかっていた。
にもかかわらず、まさか アテナに問われた瞬が 答えを一瞬 ためらったのは、のだが、それを余人に告白することになるとは思っていなかったから。
それも、兄たちのいる場所で告白しなければならなくなるとは考えてもいなかったからだった。
しかし、答えは わかっていた。

「僕に……欲があったからです。僕は、兄さんたちが幸せでいてくれるのなら、自分の命はなくてもいいと思っていた。でも、氷河に対しては――僕には、氷河に愛されたいという欲があった。自分が幸福になるために、氷河と共に生きていたいという欲があったんです」
「大変よくできました。この瞬間、氷河は――」
瞬の答えに、愛(欲)の女神が合格点を出す。
瞬の答えを聞いた時には上機嫌だった愛(欲)の女神は、だが、すぐに その美しい顔を いびつに歪めてしまった。
「氷河、なぜ 目覚めぬ」
「瞬の真実の愛の口付けが まだだ」

寝台に横たわっている氷河が、瞼を伏せたまま 答えてくる。
愛(欲)の女神は、
「そなたの目覚めの条件は、“瞬が そなたを目覚めさせることのできなかった理由を正直に告白すること”だ。愛の口付けは条件に入っていない」
と怒鳴って、星矢より加減せずに思い切り、氷河の頭を殴りつけた。
氷河が、いかにも しぶしぶといったていで 瞼を開け、寝台に上体を起こす。
氷河の青い瞳に再会できた瞬の喜び――というより、瞬の潤んだ瞳に再会できたことを喜んだ氷河が不埒な振舞いに及ぼうとすることを―― 愛(欲)の女神は 愛の女神に そぐわない険しく重々しい声で遮った。

「言っておくが、こたびの神託は、氷河の希望によって下されたもの。私が私の意思で下したものではない。頼む 拝むと 氷河に泣きつかれた私が、慈悲の心から下してやった神託だ。その点を誤解して、心得違いや逆恨みをせぬように。そなたたちが恨み責めるべき相手は 私ではない」
「氷河に泣きつかれて下した神託? それは どういうことだ」
徐々に話が見えてきた一輝の眉は吊り上がり、髪の毛は逆立っている。
強大な力を備えた愛(欲)の女神は、無論、そんなものを恐れない。
彼女は 淡々と――もとい、喜々として――氷河の愛(欲)ゆえの企てを、瞬の兄たちの前に暴露してくれた。

「氷河は、もとより瞬の無償の愛など望んでいなかったのだ。なにしろ、氷河の心身は 瞬への愛欲で満ち満ちているのだからな。氷河は、瞬が無償の愛の口付けで 自分を目覚めさせることができないことを期待していた。瞬が自分に対して抱いているものが、報いを求めない友情ではなく、母のような愛でもなく、恋であることを望み、そうであることを確かめたいと、私に乞うてきたのだ」
「うぬぅ……」
怒りで逆立った一輝の髪が、その怒りの激しさのせいで全部抜けてしまうことを、星矢と紫龍は8割方 本気で心配したのである。
そして 彼等は、これほど激しく燃え盛っている瞬の兄の攻撃的小宇宙に 全く気付いていない氷河の大物振りが、いっそ恐かった。

「最初のキスで すんなり目覚めさせられていたら、俺は絶望していただろう」
しゃあしゃあと、瞬に そう告げ、
「もちろん、俺は おまえを愛しているぞ。おまえが俺を愛してくれているように」
神をも恐れぬ厚顔で、氷河は、寝台の脇に立っていた瞬の身体を引き寄せ、抱きしめた。
氷河の愛(欲)と感動の抱擁は、あいにく1秒と続かなかったが。

「ほう。それはよかったな」
氷河が瞬の身体を抱きしめた その瞬間に、怒りに燃えた一輝が、彼の最愛の弟を 氷河から引き剥がしてしまったのだ。
地上で最も清らかな心を持つ最愛の弟の身体を 氷河の汚れた魔の手から奪い取り、自身の背後に隠し、守り―― 一輝は、地獄の底から湧き上がってくるような重く低い声で、地上で最も不埒な男を罵倒し始めた。

「貴様は、そんなことを確かめるために こんな馬鹿げた騒ぎを起こし、俺たちを巻き込んでくれたのか !? へたをしたら、俺たち全員が永遠の眠りから目覚めることなく、四つの国が滅亡していたかもしれないというのに !? 」
「? 貴様は何を言っているんだ。俺は、瞬の清らかな心を信じていたぞ? 瞬が 貴様等三人を つつがなく目覚めさせてくれることを、俺は信じていた。貴様は違うのか? 実の兄のくせに」
真顔で そんなことを言われても腹立たしい限りなのに、氷河は、真顔どころか、一輝の背後に隠されている瞬の姿だけを 懸命に追い求めている。
氷河は、一輝の糾弾を 真面目に聞いてさえいなかった。

「だ……だからといって、していいことと悪いことがあるだろう! これは冒さなくていい冒険だ! 無謀極まりない暴挙、世界の存亡を危うくする愚行!」
「愛は、危険を冒さなければ手に入れられないこともあるんだ」
世界を存亡の危機に陥れた自覚もなく、悪びれた様子も全くなく――氷河が、自分の側に来るよう、瞬に手招きをする。
一輝に怒りの臨界点を突破させたものは、氷河の犯した暴挙愚行ではなく、彼の反省のなさだったろう。
「氷河っ、貴様は、たった今、世界の最後の日まで目覚めることのない永劫の眠りに就いてしまえーっ !! 」
「一輝っ、貴様、性懲りもなく、俺の恋路を邪魔するつもりかーっ !! 」
最愛の弟を 氷河の魔の手から守りたい一輝の怒りの鳳翼天翔と、瞬との恋を全うするために 今ここで死ぬわけにはいかない氷河のオーロラエクスキューションが正面から激突し、相殺され、消滅する。

人間の営みのすべての根本に愛(欲)があるので、世界は常に騒がしく、永遠にうるさい。
人間の営みのすべての根本に愛(欲)があるので、世界は なかなか静かな眠りに就くことはできないようだった。






Fin.






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