「瞬」 蘭子の指定来店時刻は午後11時だった。 バーの閉店時刻は 最後の客が帰った時で、定められた閉店時刻はないようなものなのだが、とりあえず 11時という時刻は、氷河のバーの建前上の閉店時刻の1時間前に当たる。 瞬が 氷河の店に客として入っていくのは、ほぼ半年振りだった。 広い店ではないが、席が ほぼ埋まっているところを見ると、蘭子が言っていた通り、店の経営が良好なのは事実らしい。 氷河の愛想のなさを考えると、それは奇跡的な状況だった。 「瞬せんせ! お久しぶり!」 店内にいる客の半数が見知った顔。 今夜 瞬が店に来るという情報が既に行き渡っていたのか、最初に瞬に声を掛けてきた女性客の声と表情には 瞬の来店に驚いた様子はなく、それらは むしろ瞬の登場を待ちかねていた人間の表情と声だった。 そして 彼女が 殊の外 嬉しそうなのは、昔馴染みに久し振りに会えたから――だけではないようだった。 「服田さん。ご無沙汰していました」 「ほんと、ご無沙汰よぉ!」 バーという場所に そぐわない 賑やかな声で そう言って、服田女史は 一つだけ空いていたカウンター席への着席を(店のバーテンダーを差し置いて)瞬に促した。 半楕円形のカウンターの ほぼ中央の席に瞬を座らせ、その隣りが服田女史の席。 氷河が、客である服田女史に 場を仕切ることを許しているのは、彼女が氷河の性格と価値観と都合を心得ていて、氷河の気に入らないことをしないから。 そして、氷河がバーテンダーであるがゆえに したくてもできないことを、(客という立場を利用して)行なってくれるから。 だからこそ 氷河は、バーという場所に そぐわない彼女の賑やかさを大目に見ているようなところがあった。 「瞬せんせ、相変わらず、憎らしいほど可愛らしい」 まるで 瞬以外の誰かに聞かせるように そう言って、服田女史はカウンター席の右端の席に ちらりと視線を投げた。 その視線の先に、一人の女性がいる。 それが蘭子の言っていた、氷河にも蘭子にも他の客にも“不快な”客であるらしい。 一見したところでは、20代後半。 しかし、ともすると30代半ばにも見える。 蘭子の化粧は、彼女のアイデンティティの主張だが、その女性客の化粧は自分を飾るためのもの。 あるいは、もしかしたら、自分を隠すためのもの――のようにも見えた。 氷河の店はドレスコードがあるわけではなく、Tシャツやランニングならともかく、ポロシャツ程度のラフさでは浮くことはない。 女性の場合も、さすがにタンクトップにショートパンツは異質だが、ブラウスやカジュアルなサマードレス程度なら、自然に溶け込める店である。 そういう店で、問題の女性は 真逆の方向に浮いていた。 彼女の出で立ちは、まるで アカデミー賞授賞式に招待されたハリウッド女優か バブル期の銀座のバーのホステスのそれだったのだ。 身体の線が はっきりわかる露出過多の緋色のスリットドレス。 女性であることを武器にしているような その様子は、確かに蘭子の好みではないだろう。 自分を美しく見せる技を心得ていて、実際 そうすることに成功している華やかな美人。 雰囲気だけなら、女装時のアフロディーテに似ていないこともない。 自分が女性であることに誇りと喜びを感じ、自分が女性であることの自信に満ちている女性。 瞬は、彼女を、そういう人間だろうと推察した。 特定の要素の過度の強調は、自信のなさの反動であることも多いが、彼女の場合はどうだろう。 視覚で得られる情報だけでは、瞬にも そこまでは読み取ることができなかった。 「瞬せんせ? それが氷河のお相手なの?」 問題の女性客が カウンターに右肘をついて、誰にともなく――しかし 独り言という音量ではない声で 言う。 「“それ”って、ちょっと失礼でしょ、マナミ!」 「服田さん、いいんですよ」 すぐに噛みついていった服田女史を、瞬は穏やかに なだめた。 瞬のために用意されていたような――実際、そうだったのだろう――カウンターの中央の席。 そこに座った瞬の姿を観察できる、楕円形のカウンターの右端の席に問題の客。 彼女は、岸田眼美と名乗った。 おそらく すべてが お膳立てされているのだ。 瞬が今夜 この時刻に この店に来ることは蘭子の指示だったのだから当然としても、その時刻に問題の客がいることも 二人が座る席も、すべてが予定通り。 であればこそ、彼女は、今日が初対面の“氷河のお相手”を、無遠慮としか言いようのない目で堂々と観察してみせるのである。 「氷河のお相手で、みんなが綺麗な人だっていうから、もっと華やかな美人を想像してたのに……」 「あんたより 美人でしょ。この肌、見なさいよ。厚塗りの あんたと違って、瞬せんせはスッピンなの。笑うとファンデにヒビが入る あんたなんか、お呼びじゃないのよ!」 服田女史は もともと物怖じするタイプの女性ではないが、それにしても岸田マナミに対する彼女の言葉使いは乱暴である。 二人のやりとりは、どう考えても、この店で知り合った他人同士のそれではない。 ということは、岸田マナミは服田女史の知り合い、二人は旧知の仲なのだろう。 服田女史は 元モデルの服飾デザイナーである。 “不快な”客の出で立ちも、服田女史の関係する業界人のものと言われれば、頷けないこともない。 岸田マナミは、人に見られる仕事、人に見せる仕事に従事しているのだ。 おそらく、最初に彼女を氷河の店に連れてきたのは服田女史だったのだろう。 その旧知の友人が、“不快な”客になってしまったことに、服田女史は責任を感じているのかもしれない。 だから、岸田マナミへの服田女史の言葉使いは ぞんざいになるのだ。 「確かに綺麗だけど、絶望的に色気が足りないじゃない。無味無臭の超純水みたい。飲めない。飲みたいと思わない。純水って、飲むと身体によくないんでしょ。危険なのよね」 「瞬せんせは、優しさが服を着て歩いているような人よ。氷河、黙ってないで、何か言ってやって!」 服田女史に けしかけられても、氷河は 何も言わずにいた。 何も言わずに、瞬の前にエメラルドスプリッツァを置く。 氷河が無言なのは、それでも客は客だから。 そして、瞬を危険だと評する岸田マナミの見解は 決して誤りだとは思えないから。 氷河の沈黙を どう解したのか、岸田マナミが更に言葉を重ねる。 「ていうか、普通に お子様じゃない」 「なに?」 それは さすがに訂正せずにおくわけにはいかない誤認だったので、氷河は岸田マナミの発言に、 「多分、瞬の方が貴様より年上だと思うが」 と、訂正を入れた。 この店のバーテンダーは 本当に“客は客”という考えでいるのだろうか。 客を『貴様』呼ばわりする無礼なバーテンダーに、だが、“不快な”客は立腹した様子は見せなかった。 彼女は それどころではなかったのである。 氷河の訂正に驚いて。 「年上ぇ !? 」 彼女が瞬の年齢を どれほどと見ていたのかは定かではないが、実年齢より かなり若く見ていたのは確実。 彼女は その目を大きく見開き、改めて 瞬をまじまじと観察した。 その上で――それでも彼女は、瞬を大人に分類する気にはなれなかったらしかった。 「長く生きてればオトナっていうわけでもないでしょ。いろんな経験をして、苦労や試練を乗り越えて、そうして 人は初めて大人になるのよ」 あえて反論する必要を感じなかったバーテンダーは、再び沈黙。 「醜いことなんか知らない、汚いことなんか知らない、悪いことなんか考えたことがないって顔。苦労知らずの おめでたい子供が、そのまま大人になったみたいな顔」 だから瞬は大人ではない――というのが、彼女の考えのようだった。 年上の“おめでたい子供”を見る彼女の眼差しには、明瞭に 非難めいた蔑みが込められている。 知らないとはいえ、瞬を“苦労知らず”とは。 星矢が聞いたら、臍で茶を沸かしそうな観察眼と判断力である。 だが、瞬は、そう見えるところが奇異で稀有なのだ。 そして、そんな瞬を見て、 「でも、そういう人間ほど、腹の中では何を考えているか わかったものじゃないのよね」 と言う岸田マナミは凡俗。 人間は どんな人間でも――アテナの聖闘士でさえ――判断の基準値、標準値を“自分”に設定するのだ。 自分がそうだから、他人も そうだと思う。 しかし、それは しばしば重大な判断ミスを犯す原因になる。 「瞬は、世界の平和と人類の幸福を祈っているだろうな」 氷河の その発言は、岸田マナミの物差しで瞬を判断されることが不快だったから。 岸田マナミの物差しは、目盛りどころか、素材自体がアテナの聖闘士のそれとは 全く違っていたようで、彼女は 氷河の発言が冗談なのか本気なのかの判断ができなかったらしい。 彼女は眉をしかめて、 「それって、地に足が着いていない大馬鹿野郎ってこと?」 と、氷河に尋ねてきた――もとい、確認を入れてきた。 一般人から見たら、世界の平和を真面目に願っているアテナの聖闘士は“大馬鹿野郎”に分類される生き物なのだろうか。 憤るわけにもいかず、嘆くこともできず、もちろん 喜ぶわけにもいかず――最終的に、氷河は口を つぐんだ。 「あの……岸田さん。お声を もう少し小さく…」 瞬が そのタイミングで岸田マナミに 声の音量を落とすよう頼んだのは、言葉を失った氷河に助け舟を出したわけではなく、岸田マナミの口撃をやめさせようとしたわけでもなく――店内の客への迷惑を懸念したからだった。 バーというのは、大人が静かに酒を たしなむ場所。 今夜の客が 服田女史と 岸田マナミだけなのなら ともかく、今夜 店内は満席で、二人の他にも大勢の客がいる。 しかも、その“他の客”たちが 先ほどから ほとんど口をきいていないのだ。 “他の客”たちは、どう考えても 瞬と氷河と岸田マナミのせいで、自分たちの会話ができず、瞬と氷河と岸田マナミのやりとりに固唾を呑み、聞き耳を立てていた――立てさせられていた。 その状況を、瞬は憂慮したのである。 だが、瞬の懸念は杞憂だった。 杞憂だったことを、氷河が知らせてくれた。 「大丈夫だ。蘭子ママの根回しで、今夜 この店にいるのは、うるさくても文句は言わないことを 事前に約束させられた者だけだ。おまえを来店させると言って、ママは ここにいる客たちに 馬鹿高いチャージ料をふっかけた」 「は?」 それは つまり、今 この店の中にいるのは、瞬と岸田マナミの対決を見ようとして、(心配しつつ)待ち構えていた物見高い者たちだけ――ということなのか。 瞬が視線で氷河に確認を入れると、氷河は その肩をすくめることで『そうだ』と、瞬に答えてきた。 なんと それは岸田マナミも例外ではなかったらしい。 蘭子は、“不快な客”にも高いチャージ料をふっかけたようだった。 「そうよ。氷河の好きな人が来るっていうんで、私は高い見物料を払ったのよ。逃げようったって、そうはいかない。ごまかそうったって、そうはいかないわよ。白状なさい。あなたが、その綺麗な顔通りの人間のはずないわよね。それだけのはずない。そんな綺麗な目をしてたって、よくないことを考えることはあるでしょ? 何を考えてるの?」 「……」 蘭子のような辣腕経営者の店が 繁盛しないわけがない。 瞬は、軽い目眩いを覚えたのである。 蘭子の辣腕振りにも、それに乗る この店の常連客たちにも。 |