瞬の引越し当日、氷河は極めて勤勉だった。 「氷河は 夕べも お店に出ていたんでしょう? 星矢も紫龍も来てくれてるから、氷河は休んでて」 と、瞬は氷河の手伝いを遠慮したのだが、氷河は瞬の言葉を無視して、もくもくと荷物を運び続ける。 体力、膂力共、常識で計ることがナンセンスなアテナの聖闘士に休息を強いても無意味な上に、氷河は 自分がしたいことを させてもらえない方が機嫌を悪くする男。 氷河が手伝いたいというのなら、手伝わせておくのが最善の対応法なのだということは、瞬には わかっていた。 勤勉なのが氷河だけだったなら、瞬も彼の好きなようにさせておいたのである。 問題は、勤勉な氷河を見たナターシャまでが、 「マーマ、ナターシャも お引越しのお手伝いスルー」 と言い出したことだった。 瞬の引越し荷物は 家具と 仕事関係の書籍と資料の類がほとんどで、しかも『引越し荷物を運ぶのはアテナの聖闘士たち』という前提で、瞬は すべての荷物を大きく まとめていた。 小さな女の子に搬入を頼めるような荷物は全くなかったのである。 「ありがとう、ナターシャちゃん。でも、ナターシャちゃんは 氷河のお部屋にいてくれる? 大きな荷物を運んでる氷河たちに ぶつかったり、転んだりしたら危ないでしょう? 僕の荷物は本が多くて、重いから――」 「ナターシャ、マーマのお手伝いできない?」 ナターシャは、瞬を『マーマ』と呼ぶようになっていた。 マーマが同じ家(ナターシャは そういう認識らしい)に来てくれるというので、瞬の引越しの話を聞いてから、ナターシャは 指折り数えて 今日の日を待っていたらしい。 そんなナターシャを しょんぼりさせることは、瞬も大いに不本意だった。 マーマのお手伝いができないというので がっかりしているナターシャの前に しゃがんで、瞬が その顔を覗き込む。 「ナターシャちゃん。じゃあね。さっきから お引越しの邪魔ばっかりしてる星矢と、公園で遊んであげてくれるかな?」 「邪魔なんか してねーだろ。俺は ちゃんと荷物を運んでるぜ!」 引越しの邪魔をしていると断じられた星矢が、瞬に反論してくる。 確かに 彼は ちゃんと荷物を運んでいた――運ぶ振りはしていた。 もくもくと荷物を運んでいる氷河の行く手を遮りながら。 明確に引越し作業の進捗率を下げてくれているにも かかわらず、堂々と反論してくる星矢を、瞬が軽く睨む。 しかし、星矢は悪びれた様子は見せなかった。 「俺はさ。俺はただ、ナターシャが なんで おまえを“マーマ”って呼ぶようになったのか、不思議だなーって思って、その謎の解明に取り組んでただけだ。氷河が何か小細工したに決まってるのに白状しねーから、口を割らせようとしてただけ! ナターシャは、前は 瞬のこと、“シュンチャン”って呼んでただろ」 それを邪魔と言わずに、何と言うのか。 少なくとも それは“引越しの手伝い”ではない。 渋面になりかけた瞬を、(それと意識せずに)押し留めてくれたのはナターシャだった。 引越しの邪魔をしている星矢を公園に連れ出して 一緒に遊んであげることより、星矢の謎を解明してあげる方が、より有効な引越しの手伝いになる――と、ナターシャが考えたのかどうかは定かではないが、ともかく ナターシャは、星矢が不思議に思っていることの回答を 星矢を示してやったのである。 「マーマは綺麗で優しくて、パパは マーマが大好きだからダヨ。マーマは綺麗で優しくて、パパはマーマが大好きなの。だから、マーマはマーマなんダヨ」 「は?」 瞬を“マーマ”と呼ぶようになったナターシャ当人の答えなのだから、当然 それは正答であるに決まっている――誤答ではないだろう。 無論、ナターシャが嘘をつくはずもなく、事実の韜晦を図るはずもない。 にもかかわらず、星矢には、ナターシャの答えの意味するところが全く理解できなかったのである。 理解できず、くしゃりと顔を歪めた星矢に、書籍の入ったダンボールを抱えた紫龍が解説(むしろ翻訳)してくれた。 「それは、おそらく――『パパは 綺麗で優しい“マーマ”が大好きである』『瞬は綺麗で優しく、氷河は瞬が大好きである』『ゆえに、瞬はマーマである』の三段論法だろう」 「……紫龍、おまえ、よくわかるな」 ナターシャの正答の内容より、それを紫龍が理解できることにこそ 驚いて、星矢が目を見開く。 もちろん、星矢の手は お留守。 星矢に その事実を気付かせるため、紫龍は彼が抱えている荷物を、わざと大仰な所作で持ち直してみせた。 「それはまあ、固有名詞のマーマと普通名詞のマーマを区別すれば、自ずと理解できる」 その区別ができなかったから、星矢は紫龍の翻訳に驚いたのだが、訳文の内容自体は 星矢にも合点のいくものだった。 ナターシャと星矢たちのやりとりは聞こえているはずなのに、氷河が もくもくと荷物の搬入に いそしんでいるのは、紫龍の翻訳が大筋で事実に合致しているからなのか、ナターシャの前で『瞬はマーマではない』と言うことができないからなのか。 瞬も、その件には 触れるつもりがないようだった。 「ナターシャちゃん、それでね。公園で 星矢と1時間くらい遊んであげてから、お蕎麦屋さんに行って、出前を頼んできてほしいの」 「オソバー?」 ここで なぜ蕎麦なのかが わからなかったらしいナターシャが、首をかしげる。 「うん。お引越しをした日には、みんなで お蕎麦を食べることになってるんだよ。僕がナターシャちゃんの おそばに来ました――っていう、ご挨拶なの」 「マーマがナターシャのオソバに来ましたー !! 」 そのフレーズが気に入ったのか、ナターシャは 瞬が口にした言葉を嬉しそうに復唱した。 紫龍が、そんなナターシャを見ながら、瞬に尋ねてくる。 「ナターシャは、蕎麦は大丈夫なのか。食物アレルギーは」 「それは大丈夫。お蕎麦も小麦粉も卵も牛乳も――ナターシャちゃんに食物アレルギーはないみたい」 「おまえ、んなことまで調べたのかよ?」 「大事なことだよ」 実際 それは大事なことで、だが、氷河には 絶対に気のまわらないことである。 そして、一事が万事だった。 「確かに、瞬は ナターシャの側にいた方がいいな。しかし――」 瞬がナターシャの お側に行くことには異議も異論もなく、むしろ それは絶対に必要なことだったのだと、紫龍は 改めて思ったらしい。 彼は、そういう顔をした。 「しかし、引越し蕎麦は、普通、引っ越してきた者が近所に配るものだろう」 「今時、そんなことをしたら、かえって ご近所さんに不審がられるみたい。昨今は、プライバシー保護だのホームセキュリティだのがうるさいから。氷河のマンション、そういうのは原則禁止なんだって」 「世知辛い世の中になったもんだなー。おかげで、こっちは蕎麦が食えるから いいけどさ。天ぷら つけてもいいか?」 「天ぷらでも、鴨焼きでも、蕎麦がき汁粉でも、好きなものを好きなだけ」 「やったー!」 星矢が文字通り、諸手を上げて歓声をあげる。 星矢が十代の頃と まるで変っていないので、瞬は、星矢と離れていた時間の長さを忘れそうになった。 その明るさが、星矢の強さゆえのものだということが わかるので、瞬は 星矢の変わらなさが嬉しかったのである。 変わらないことが、仲間と離れていた長い時間に星矢が遂げた成長なのだと思う。 そして、もしかしたら、氷河がナターシャを自分の手で育てようと決意したことは、氷河の成長なのかもしれない。 ならば、瞬は、少しでも氷河の力になりたかった。 「じゃあ、ナターシャちゃん。星矢のおもりを頼むね。それまでに、僕たちは お片付けを済ませておくから」 「ナターシャ、星矢お兄ちゃんと遊んであげるヨー!」 ナターシャが、星矢のように両手を上げ、星矢のように明るく、良い子の お返事を返してくる。 死の残骸を縒り合わせて生まれたナターシャの 明るさ素直さは、ナターシャの強さゆえのもの。 おそらく 氷河にとって そうであるように 瞬にとっても、ナターシャとナターシャの幸福は 絶対に守らなければならないものになっていた。 全くの予定外、しかも 慌ただしい引越しだったが、それはナターシャのためになり、ナターシャの健やかな成長と幸福に寄与できる 良い決断だったと、瞬は思っていたのである。 思っていたのだが。 |