最初から そんなことになるのだろうと察しはついていたが、氷河の『3時間は寝かせてやる』は空手形にすぎなかった。 氷河の部屋に移動したのは賢明な判断だったと、瞬は 朝になってから、しみじみ思ったのである。 夕べ 氷河と何をしたのか、ほとんど憶えていない。 とんでもないことを色々して、とんでもないことを あれこれ させられて、ナターシャには絶対に聞かれてはならないような声を幾度も上げたと思う。 このマンションの“完全防音”の宣伝コピーが どこまで事実に即しているものなのか、事前に調べておくべきだったと、朝の光の中で 瞬は思った。 氷河が 隣りで眠っている。 氷河は、瞬以上に眠らなくても平気な体質で、どうせ 狸寝入り。 眠った振りをしていれば、瞬が 起きている時には言わないような言葉を、眠っている恋人に囁いてくれるかもしれないと、氷河は それを期待しているのだ。 以前、その罠に はまって、ひどい目に会ったことがある。 ここで 油断して、『好き』だの『愛してる』だの『幸せ』だのは もちろん、『いい』だの『よかった』だの、そんな類の言葉を囁くことは、自分の首を絞めること。 瞬は、ベッドの上に上体を起こし、氷河の鼻をつまんで、可能な限り厳しい声で、 「ナターシャちゃんのためだって言ってなかった?」 と、氷河を責めたのである。 アテナの聖闘士でも、呼吸をしなければ死ぬ。 氷河は無駄な抵抗はせず、すぐに目と口を開け、 「もちろん、ナターシャのためだ」 と、しれっとした様子で答えてきた。 氷河を見る瞬の目は、不信感でいっぱい――である。 もちろん 人は鏡の力を借りずに 自分の目を見ることはできないのだが、今 自分の目が“人を信じることを やめかけた”人間の目になっているのだろうことは、瞬には薄々 感じとれていた。 へたに(体力の限界も含めて)互いの身体を知り尽くしているせいで、何をしても、させられても、気持ちいいばかりなのが、かえって質が悪い。 その上、氷河は、瞬の不信の眼差しが 信じたいがゆえの不信だということを知っている。 昨夜の“いい お父さん”振りは どこへやら、氷河は 今度は“拗ねた子供”の振りをして、瞬の説得に取り組み始めた。 「俺がナターシャを引き取ってから、おまえは一度も 俺の家に泊まりに来ていない」 「ナターシャちゃんのいるところに、泊まりに行けるわけがないでしょう」 「だから、こうして来てもらった」 『こうして来てもらった』というのは、つまり『引越してきてもらった』ということらしい。 「ナターシャとおまえ。俺が好きな二人は、同じ場所にいてもらった方が、俺には都合がいい」 これほど正当な動機も目的もないという顔で 氷河は言うが、それは つまり、『これは俺の我儘だ』という自白以外の何物でもない。 「ナターシャちゃんのためって、氷河、言ってなかった? 僕がナターシャちゃんの側にいれば 安心できるからって」 「その通り。ナターシャのためだ。俺が おまえに会えなくて イライラしていると、ナターシャは勘のいい子だから、すぐに 俺の苛立ちを感じ取って影響される。ナターシャを、俺のせいで 情緒不安定な子供にするわけにはいかん」 「……」 氷河は、あくまで『ナターシャのため』で押し通すつもりでいるらしい。 瞬が氷河を軽く睨みつけると、氷河は ついに観念する気になったのか、ベッドに横になったままの態勢で、裸の肩を すくめた。 「ナターシャのためだ。ナターシャだけのためでないだけで。まあ、少しは 俺のためでもあるな」 『自分のためだと、やっと認めた』と 瞬が思ったのは、一瞬だけだった。 氷河にしては あまりに簡単に認めすぎると、瞬は感じたのである。 実際、それは早すぎた。 氷河は、依怙地と言っていいほど 意地っ張りな男である。 『俺のためだ』は 平気で堂々と言うが、『誰かのために』は滅多に言わない。 『誰かのために』と明言する行為は、その“誰か”に対して恩着せがましくて恰好が悪いと考える男なのだ、氷河は。 そして、氷河は、自分の行為が“誰か”のためであることを、いつまでも(永遠に)公言しないことも ままある。 『ナターシャのために』『俺のために』は煙幕で、本当の“誰か”が他にいる。 早すぎる氷河の自白に、瞬は そう直感した。 だが、その“誰か”は誰なのか。 瞬が、氷河やナターシャの側に引っ越すことで、何らかの恩恵を受ける人間。 氷河が 瞬に事実を隠し、すべては自分の我儘から出たことにしようとするほど、氷河にとって大切な人。 ナターシャではなく、氷河自身でもない、氷河の大事な人。 アテナ、亡くなった彼の母、彼の師、彼の仲間たち――。 色々な人の名と姿を思い浮かべ、除外し、最後に残った人は、瞬にとって ひどく思いがけない人間だった。 『すべての不可能を消去して 最後に残ったものが、いかに奇妙なことであっても、それが真実である』と、シャーロック・ホームズが言っている。 その言葉に従って 消去法を駆使し、瞬が最後に辿り着いた真犯人は、あろうことか 瞬自身だったのだ。 「俺が 自分勝手な男だということは、おまえは昔から よく知っているだろう。怒るな。可愛らしい顔が台無しだ」 探偵が真犯人に辿り着いたことに気付かず、氷河は、自分自身を悪者に仕立てあげようとしている。 「氷河……もしかして、僕のため?」 一瞬の沈黙。 氷河は すぐに、 「何のことだ」 と、いつもの無表情(に見える顔)で問い返してきた。 だが、それで ごまかされてしまうには あまりにも――あまりにも、瞬は氷河という男の 人となりを知りすぎていたのである。 一人が嫌いな、寂しがりやの仲間のために。 いつも 誰かのために生きていたい仲間のために、氷河は この引越しを企んだのだ。 「瞬。おまえ、何か誤解してるぞ」 「うん……。誤解なら誤解でいいの」 起こしていた身体を 氷河の隣りに寄り添わせ、その胸に頬を押しあてる。 「俺は、そういう恰好悪いことは嫌いなんだ」 氷河が ぶつぶつ言いながら、それでも瞬の肩を抱き寄せる。 幾つになっても――大人と言える歳になっても――こんな面倒な男は他にいない。 「僕たち二人で、必ずナターシャちゃんを幸せにしてあげようね」 氷河のために――氷河を恰好いい男にしておくために――どうしても浮かんできてしまう微笑を打ち消しながら、氷河の胸で 瞬は囁いた。 Fin.
|