「ナターシャちゃん。この間、一緒に梨狩りに行った貴幸くんと貴幸くんのママが、今度 遠くに お引越しすることになったの。お見送りに行こうか」 もしかしたら 実の母親である人との、もしかしたら これが最後の出会いになるかもしれない。 瞬が ナターシャに水を向けたのは、大矢夫人(正確には、元大矢夫人)のためではなく――大矢夫人に求められたわけでもなく――ナターシャのためだった。 だが、ナターシャの答えは、 「ナターシャ、行かない」 という、短く 素っ気ないもの。 しかも、ほとんど即答だった。 ナターシャは、お出掛けの好きな子である。 いつも 大抵のお出掛けを喜ぶナターシャの その返事は、瞬には思いがけないものだった。 「え?」 『どうして?』と、瞬が問い返す前に、ナターシャから 重ねて『否』の答えが返ってくる。 「ナターシャは、あのおばちゃんには 会わない方がいいヨ」 「ナターシャ……?」 当惑する瞬の隣りで、氷河は、その青い瞳に 僅かに不安の色を浮かび上がらせた。 ナターシャは大矢美幸ではない。 ナターシャのパパはアクエリアスの氷河、マーマはバルゴの瞬。 それが誰にも否定できない事実となった今、ナターシャの『会わない方がいい』という言葉は『会いたい』という言葉より、氷河に不安を――安堵ではなく不安を――運んでくるものだったのだ。 大矢夫人と彼の息子が ナターシャにとってどういう存在なのかということは、もちろん ナターシャには知らせていない。 にもかかわらず――ナターシャは、大矢夫人に何かを感じて『会わない方がいい』と言い出したのだろうか? 「ナターシャちゃんは、どうして 大矢さんに会わない方がいいと思うの?」 ナターシャの前に しゃがんで、氷河の代わりに、瞬がナターシャに尋ねる。 ナターシャは、二度三度 瞬の前で瞬きをしてから、 「あのおばちゃん、ナターシャを見て、悲しそうだったカラ。それにタカユキくんも」 と答えてきた。 「ナターシャには パパとマーマがいるのに、タカユキくんは肩車してくれるパパがいなくて、寂しそうダッタノ。デモ、ナターシャ、パパにタカユキくんも肩車してあげてって言えナカッタノ。パパは、ナターシャとマーマのパパだから言えナカッタノ。ナターシャ、意地悪ナノカナ……」 「ナターシャちゃん……」 ナターシャが大きな瞳を伏せ、しょんぼりと肩を落とす。 あの時、ナターシャは 瞬と同じことを考えていたらしい。 だが、瞬と同じように、ナターシャは その言葉を口にすることができなかったらしい。 そして ナターシャは、そう言うことのできなかった自分に 罪悪感を抱いているようだった。 「ナターシャちゃんが意地悪だなんて、そんなことはないよ。貴幸くんが寂しそうだったって わかるのは、ナターシャちゃんが優しい心を持ってるからだよ」 「デモデモ」 「優しいから、人の心の痛みがわかるの。そして、おんなじように痛いと感じるの」 「ホントに優しい人は、痛くなくしてあげる人でしょう? パパやマーマみたいに」 「ナターシャちゃん……」 ナターシャは 確かに幼く小さな少女なのに――幼く小さな少女だからこそ?――時折、大人より厳しく明瞭に現実を見据えることがあった。 ナターシャは素直で優しい少女である。 親の贔屓目抜きに見ても、素直で優しい子だと思う。 しかも聡明。 だからナターシャの優しさは、“甘さ”ではなく、正しく“優しさ”になっているのだ。 ナターシャが いずれ、“痛くなくしてあげる”力を その心に養うことは確実である。 瞬は、ナターシャが自分の娘であることが誇らしかった。 「ナターシャちゃんは優しい子だよ。本当に優しい子」 「瞬の言う通りだ。ナターシャが貴幸くんのことを案じることはない。あのあと、タカユキクンには新しいパパができたんだ。ナターシャが俺を他の子に貸し出す必要はなくなった」 ナターシャの頭に手を置いて、氷河が ナターシャの心配事をナターシャの中から消し去る。 ナターシャは、タカユキクンに新しいパパができたことを 特段 奇異なこととは思わなかったらしい。 ぱっと瞳を輝かせて、ナターシャは 嬉しそうに 氷河の顔を見上げた。 「ホント !? タカユキクンは、寂しくナクナッタノ !? 」 「ああ、もちろん」 「ヨカッター!」 タカユキクンが寂しくなくなったことを心から喜べるナターシャの素直さが、瞬を喜ばせた。 「ナターシャちゃんが優しくて、僕も嬉しい」 『氷河も嬉しいと思ってるよ』と言わなくても、そうであることは ナターシャには わかる。 ナターシャは 優しいだけでなく、賢い子でもあるのだ。 ナターシャの周辺にある最大の問題は いつも、ナターシャ自身ではなく、彼女のパパにあった。 「だが、やはり ナターシャは タカユキクンたちには もう会わない方がいいだろうな。タカユキクンの新しいパパは、絶対に 俺ほどかっこよくないだろう。俺と新しいパパを比べて、タカユキクンががっかりすることになったら、タカユキクンが気の毒だ」 「パパは世界一 かっこいいヨー」 「俺は ナターシャのパパだから、それは当然だ。よし、今度は、ナターシャと俺と瞬とで リンゴ狩りに行こう」 「オリンゴ !? ワーイ!」 「肩車もいいが、リンゴの木は あまり高くないし、低いところから幹や枝が伸びているから、木登りには最適なんだ。ナターシャに木登りのコツを教えてやるぞ」 「ヤッター!」 タカユキクンが寂しくなくなる話が、なぜ 僅か数秒で木登りの話になるのか。 光速も追いつかないほど急転直下の その展開に、瞬(乙女座の黄金聖闘士である)は ついていけなかったのである。 「氷河! ナターシャちゃんに、木登りなんて危ないことは――」 「キノボリ! ナターシャ、キノボリ!」 頬を紅潮させて、ナターシャは氷河に登り始めた。 こうなると、この父娘は 簡単には引き離せない。 神の域に達する力を持つ乙女座の黄金聖闘士にも、不可能なことはあるのだ。 それは おそらく、アテナの聖闘士が人間であるがゆえに どうしても生じてしまう限界というものだった。 後日、未亡人でなくなった元大矢夫人が東京を去ってから、瞬は 勤務先の機器を使って、彼女とナターシャのDNA鑑定を行なってみたのである。 人権上の問題があることは承知の上で、もし彼女がナターシャを引き取りたいと言い出した時に備えて(それは 杞憂に終わったのだが)大矢夫人に気付かせずに手に入れておいた彼女の頭髪を用いて。 “ナターシャ”の身体は、大矢美幸一人のもので できているわけではないが、その頭部は間違いなく 元大矢夫人の娘のものである。 にもかかわらず、元大矢夫人とナターシャの血縁指数は60パーセントしかなかった。 血縁である傾向は見られたが、二人はDNAの塩基配列上、親子ではなくなっていたのだ。 ナターシャの幸福が何であるのかが明白になった今、それは大した問題ではなかったが。 Fin.
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