「オトナって、汚い……」 カウンターの中にいる“汚いオトナ”は、自分のせいで客が落ち込んでいるというのに、謝罪はおろか、慰撫の言葉一つ口にしない。 星矢を慰めるのは、この店の不愛想なバーテンダーではなく、大人な客であるところの紫龍の役目だった。 「大人が汚いということではないだろう。氷河と瞬は 子供の頃から そういう仲だったんだ」 「一輝も騙されてるのかよ」 「むしろ、一輝のために続けている嘘なんだろう。一輝は、瞬を清らかで可愛い弟と思っていたい。瞬は、一輝の期待を裏切りたくない。つまり、兄弟愛がつかせた嘘だったんだ。あの『1回でいいから、やらせてくれ』『1回だけでも いやです』は。無論、氷河が一輝に殺されないようにするためでもあったろうが」 星矢が“十数年間の氷河の純愛”と思っていたものは、実は“十数年間の瞬の兄弟愛”だったらしい。 氷河は、瞬の兄弟愛に付き合ってやっている寛大な男なのか、はたまた、瞬の兄弟愛に付き合わされている情けない男なのか。 おそらく、その両方なのだろう。 カウンターの中の氷河は、相変わらず 表情らしい表情も浮かべず、言葉も発しない。 人の目も評価も気にしない氷河は、典型的“名より実を取る”男。 欲しいものが自分の手の中にあるなら、余人に どう思われようと、そんなことは歯牙にもかけない男なのだ。 「それって、ある意味、氷河も瞬も ガキの頃から なんにも変わってないってことなのかなー……」 「そういう見方もあるな」 まだ 一滴のアルコールも口にしていないというのに、カウンターで 潰れてしまっている星矢に、紫龍が苦笑混じりに相槌を打つ。 「大人になる、その なり方も人それぞれ。成長することで大人になる人間もいれば、変わらないことで大人になる人間もいるということだ」 子供らしい子供時代を過ごしたことのないアテナの聖闘士たちなら 尚更、“大人になること”の意味は “普通”とは かけ離れているのかもしれない。 「瞬が それでいいのなら、俺も それでいいんだけどさー……」 結局のところ、最後に行き着くのは その思いである。 大切な人が幸せなのなら、それでいい。 十数年間の長きに渡って、氷河が 瞬の兄弟愛に付き合ってきたのも、とどのつまりは その思いのゆえだったに決まっていた。 「ま、星矢ちゃんたら オトナ!」 蘭子に 病み上がりの背中を思い切り ど突かれて、更にカウンターテーブルに のめり込んだ星矢の目の前に、氷河が 少々 茶色の勝ったオレンジ色のショートカクテルを置いた。 「オリンピック――100年以上昔にレシピが作られたカクテルだ。おまえの小宇宙に数年振りで触れた日に、瞬と飲んだ。ブランデーとオレンジキュラソー、オレンジジュースを同量ずつ。瞬は、からくて きついと言って泣いていた。カクテル言葉は、“待ち焦がれた再会”。……おまえが音信不通でいた間、瞬が どんなに おまえのことを案じていたか、おまえは わかっているのか」 「……」 抑揚がなく 淡々とした氷河の声が、むしろ 強い感情を感じさせる。 星矢は、目の端を少し赤くして カウンターに突っ伏していた上体を起こした。 「ほんと、オトナって ずるいよな。十何年間も仲間を騙し続けてたのを、たった一杯の酒で ちゃらにしようとするんだから」 「大人の特権だ」 澄ました顔で、氷河が あっさり言ってのける。 長く深く吐息して、星矢は 大人の特権を一気に飲み干した。 Fin.
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