瞬は 氷河に、どこのホテルに宿泊しているのかは尋ねなかった。
そんなことを尋ねて、同じことを問い返されては困るから。
宿泊しているホテルを知られること自体には 大した問題はないのだが、そんな些細な情報から 別の些細な情報が洩れ、そこから更に別の些細な情報が洩れ、やがて それは極めて重大な秘密に行き着いてしまうかもしれない。
“人間である”ということ以外の“瞬の正体”を詮索されるのは困るのだ。

だが、氷河と二度と会えないのは もっと困る――なぜか寂しい――とても つらい――のだ。
それが幸いなことなのかどうかは さておいて、氷河も 同じように思ってくれているようだった。
そして 彼は、瞬が自分の正体を 人に詮索されたくないと思っていることも、勘良く察してくれたらしい。
だから――その日、瞬と氷河は、そうするのが 当然のように、翌日 会う場所と時刻を決めて 別れたのである。
翌日も、翌々日も、明日 どこで会うかを決めて 別れた。
そうして 二人は再会を繰り返したのである。

氷河が何者なのかを知りたくないわけではなかったのだが、自分が何者であるのかを氷河に知らせるわけにはいかない瞬には、他に どうすることもできなかったのだ。
いつまでも そんな交流が続かないことはわかっていたが、瞬には、他に氷河と会い続ける術がなかった。
そして、瞬は、氷河に会えなくなることが つらかった。
どうしても氷河が 自分にとって“特別な”何かであるような気がして、彼と別れ難かったのだ。

氷河との出会いを重ね、共に過ごす時間が長くなるにつれ――やがて 瞬は、“正体”を隠しているのが自分だけではないことに気付いたのである。
氷河も 自身の正体を隠そうとしていることが わかってきた。

自分が何者であるのかを告げていないのに、氷河が何者であるのかは知りたい。
それが身勝手極まりない望みだということは、瞬とて自覚していた。
瞬が そんな身勝手な望みを抱くようになったのは、聞くつもりがなくても耳に入ってくる、同じホテルの宿泊客たちのお喋りや、ホテルに置いてある新聞のせいだった。
公式非公式の別はもちろん、事実と噂の別すらなく、諸外国の王侯貴族や著名人のギリシャ来訪を毎日のように書き立てる新聞と、その新聞の記事を歓談の話題にする宿泊客たち。
噂の域を出ない情報も交えると、今 このギリシャには、少なくとも20ヶ国近い国の王族皇族が滞在していることになり、あわよくば そういった貴人たちと懇意になりたいと望む者 多数。
そういった人間たちが、明らかに氷河のことを噂しているとしか思えない場面に、瞬は幾度も出会った。

「昨日、リカヴィトスの丘で、ものすごい金髪の青年を見掛けたんだが、あれが お忍びでギリシャ入りしたという噂のロシアの皇太子だったんじゃないか」
「アポロンかエンデュミオンかと思うような美形でしょ。一緒にいたのが、アルテミスというよりダフネだったから、やっぱりアポロンかしら。2日前にイロド・アティコス音楽堂で見掛けたわ。私、彼はスウェーデンの王子だと思うわよ」
「今のスウェーデン王室のベルナドッテ家は、元はといえばナポレオン麾下のフランス軍の元帥、出身は南フランスだ。あの金髪は、もっと北の人間のそれだよ」
――といった調子で。

これで氷河の正体を気にするなと言われても、それは至難のわざである。
王族だから、皇族だからという理由で、人を差別するつもりはなかったが、瞬は、特定の国の そういった地位にある人間と親しくなるわけにはいかなかった――それは好ましいこととは思えなかったのだ。






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