「そのうちに僕は、手紙の送り主が誰なのかを考えるのをやめてしまった。それが誰からのメッセージなのかってことより、そんなメッセージを僕に送ってくれる人がいるってことこそが大事なんだってことに、僕は気付いたの。誰かが僕を励まそうとしてくれてるってことの方が、ずっと大事。僕は――僕は、あの手紙のおかげで聖闘士になるための修行に耐えることができたんだよ。僕が頑張らなきゃ、あの手紙をくれた人を悲しませる。僕が死んだら、その人も 死んじゃうかもしれない。でも、僕が頑張れば、その人も頑張ってくれる。僕が聖闘士になって生きて帰ってくれば、その人も聖闘士になって帰ってきてくれる。勝手に そう思い込んで――。兄さんと別れる時、きっと生きて帰ってくるって、僕が兄さんと約束できたのも、あの手紙のおかげだったと思う」
「んなことあったなんて、俺、全然 知らなかったぜ。なんで 教えてくれなかったんだよ」
「え?」
「ガキの頃はともかく、聖闘士になって帰ってきてからさあ」
「あ……」

星矢の疑念は、至極 当然のものだったろう。
だが、瞬は、暫時 答えに窮した。
窮して、
「い……忙しかったから……」
という、怠惰な人間の言い訳の常套句を返す。
瞬を怠惰な人間と思っていない星矢は、その理由を素直に受け入れてくれた。
実際、青銅聖闘士たちは帰国後ずっと 忙しかったのだ。
命をかけた戦いが打ち続いていたせいで。

「あの手紙を僕に送ってくれたのは誰なのか、知りたい気持ちはあるんだ。『ありがとう』って、言えるものなら言いたい。でも……」
「そっかあ。そりゃ そうだよな。命の恩人だもんな」
星矢には、瞬が口にした『でも』が聞こえなかったのかもしれない。
あるいは、聞こえていたが、違う意味にとったのかもしれない。

手紙の送り主が誰なのかを突きとめることに、瞬が あまり積極的でないことに、星矢は気付かなかったようだった。
気付かなかったから――星矢は、少年探偵団ごっこを 勝手に始めてしまったのだろう。
つらかった時期、悲しかった時期を乗り越えても、つらいことや悲しいことが消えてしまったあとでも、笑い話にできない思い出があることに、前向きすぎ ポジティブすぎる星矢は気付かないのだ。
そして、瞬も――氷河が不愉快そうな渋面を作っていることに気付いていなかった。

「そいつって、瞬をよく知ってる奴だよな? 自分のためには頑張れないけど、誰かのためになら 頑張れるっていう、瞬の性格をよく知ってる奴」
「鏡文字は、筆跡から 自分が誰なのかが ばれないようにするためだったのかもしれないな」
「なんで ばれたくないんだよ」
「何か名乗れない理由があったのだろう」
「名乗れない理由って何だ?」
とりあえず少年探偵団に入団したのは、星矢と紫龍だった。
団員二人が、積極的に謎を解きたくない瞬と 現状を不快に感じているらしい氷河を無視して、推理を進めていく。

「星矢、おまえなら名乗るか?」
「別に 悪いことしてるわけでもないし、名乗るだろ――いや、名乗らないか」
「なぜ」
「名乗らない方が カッコいいじゃん」
「そうだな」
星矢の匿名希望理由を聞いた紫龍は、喉の奥に声を閉じ込めたように微笑した。
『名乗らない方が カッコいい』
それは確かに大事なことである。

「その手紙の送り主も、名乗らない方が恰好がいいと思ったのかもしれん。あるいは、他に理由があったのかもしれん。いずれにしても、人が自分の名を名乗らない理由は いくらでもある」
紫龍の意見に、星矢は合点がいったように頷いた。
星矢の首肯を確かめて、紫龍は 彼の推理を次のステージに進めたのである。
「手紙の送り主は、あの頃 城戸邸にいた子供たちの誰かという可能性が 高いだろうが……」
と、そこまで言って、紫龍は口許を強張らせた。
その段になって初めて、紫龍は、瞬が仲間たちに 鏡文字の手紙のことを語らずにいた訳に気付いた――気付いてしまったのだ。
つらかった時期、悲しかった時期を乗り越えても、つらいことや悲しいことが消えてしまったあとでも、笑い話にできない思い出はある。
紫龍が気付いたことに 気付いて、瞬は瞼を伏せた。

100人もいた子供たち。
100人もいたのに、聖衣を手に入れて日本に帰国したのは、たった10人。
生きて帰ってきた者の方が少ないのだ。
100人いた子供たちの内、90人は聖闘士になることができなかった。
帰国しなかった90人の子供たちが皆、命を落としたとは限らないが、聖闘士になるための修行の過酷を思えば、彼等の人生を楽観視することはできない。
瞬は、その人が死んでいたことを知るのが恐くて、これまで その人を本気で探すことを ためらっていたのである。

「……手紙の送り主が 生きて帰って来た者たちの中にいるのかどうかは、ゆるゆると探してみよう。あまり躍起にはならずに」
“その人”に力付けられた瞬は生き延び、瞬を力付けてくれた“その人”は命を落としていた。
そんな最悪の結末に辿り着いてしまった場合のことを考えて、紫龍は 声の調子を落としたのに、
「その怪しい手紙、いつまで届いてたんだよ !? 」
星矢は、それが紫龍の牽制だと気付かなかったらしい。
彼は身を乗り出して 瞬に尋ねてきた。

勇気りんりん瑠璃の色。
星矢が半世紀も昔の少年探偵団の歌を知っていたのは、もしかすると 彼が その団体(?)に憧れていたからだったのかもしれない。
星矢は、謎を謎のままにしておくことができないのだ。
それは星矢が鈍感だからではなく、冷酷だからでもなく――星矢は、たとえ自分が最悪の結末に辿り着いても、その結末を乗り越える強さを持っているから。
乗り越えることが正しいと、星矢が信じているからなのだ。

星矢の持つ強さ、星矢が思う正しさは 正しい。
瞬にも それはわかっていた。
それでも、瞬の声は、星矢のそれのように覇気のあるものにはならなかったが。
「僕がアンドロメダ島に行く日も届いたよ。その日は竜胆の花と一緒に」
「あ、それで、おまえ、リンドウがどうこうって言ってたのか」
「うん……」
「てことは、瞬よりあとに修行地に送られた奴。同じ日に送られた奴ってパターンもありか。瞬より先に修行地に送られた奴は、容疑者から除外してもいいな」

“容疑者”という言い方は どうかと思うが、それはさておいて、瞬は星矢の推理に びっくりして目を見開くことになった。
瞬のその様子を見て、星矢が首をかしげる。
「なんだよ。俺、そんなに変なこと言ったか?」
「あ、ううん。そうじゃないの」
瞬が驚いたのは、星矢が変なことを言ったからではなかった。
むしろ、その逆。
星矢が あまりに真っ当かつ論理的なことを言うので、(実に失礼な話だが)瞬は、星矢の星矢らしからぬ理路整然に、その真っ当さに 驚いたのである。

「僕、これまで そういうこと、考えたことがなかったから……。花言葉とか、花の名前そのものとか、そういうところにヒントがあるのかと思ってたんだ」
「花言葉?」
「……ん。それと花の名前……とか」
口ごもるように言って、瞬が 上目使いに ちらりと紫龍の顔を覗き込む。
「ん?」
紫龍は、瞬の視線の意味が わからなかったらしい。
わからないということは、つまり、そういうことなのだろう。

「リンドウって、竜の胆って書くから」
「紫龍かと思ってたのか?」
「そういう可能性もあるかな……って……」
可能性だけは、いくらでも考えたのだ。
それこそ、99の可能性を考えた。
どの可能性に関しても、確かめる勇気を持てなかっただけで。
紫龍が、瞬に横に首を振ってみせる。
「残念ながら、俺ではない。そもそも五老峰に行くまで、俺は、そこに龍座の聖衣があることを知らなかった」
「あ……そうか……」
言われてみれば、その通り。
腑に落ちたような瞬を見て、星矢が瞬に心配顔を向けてきた。

「そんなことにも考え及ばずにいたなんて、瞬、おまえ、大丈夫か? おまえ、いつもはもっと――なんつーか、いつもはもっと、お利巧さんじゃん」
「え……」
星矢のコメントに、どう応じたものか。
それほど、瞬は、真実を知ることを――最悪の事態を恐れていたのだ。
瞬の臆病を、だが、恐いもの知らずの星矢は理解できない。
星矢は、少しでも早く 真実を突きとめたいようだった。

「あ、そーいや、竜胆の花言葉って何なんだよ?」
「――悲しんでいるあなたを愛す」
手紙をもらった頃には知らなかった、竜胆の花言葉。
竜胆の花に そういう花言葉があることを 瞬が知ったのは、彼が聖闘士になって日本に帰ってきてから――もしかしたら“その人”が死んでしまってから――のことだった。
「それは……花言葉に意味があると思うのは、自然なことだな」
そう言って 紫龍が視線を投げた先に、一人、苦虫を噛み潰したような顔をした男がいた。

「おい、氷河。何だよ、むすっとして」
「いや、ガキのくせに、花を贈るなんて、虫唾が走るくらい気障な野郎だと思っただけだ」
「おまえだって、マーマに薔薇の花を捧げてたんだろ」
「マーマは特別だ。俺が薔薇の花を捧げるのはマーマだけだ」
「はいはい」
星矢に いなされるようでは、白鳥座の聖闘士も終わり。
――と 氷河が考えたのかどうかは定かではないが、星矢は いっそ見事と言っていいなほど鮮やかに、氷河の言い分を右から左に受け流した。

「でも、あの頃、城戸邸にいた奴の中に、誰かに花を贈るなんてこと考えるような奴がいたかよ? 氷河のマザコンは論外として、そんな少女趣味なこと思いつくのは、せいぜい瞬くらいのもんだったろ。いや、少女趣味っていうか、カワイイことっていうか、こじゃれたことっていうか、気の利いたことっていうか、まあ、つまり、その……そーゆーこと」
自分の失言を言い繕うのに 思い切り失敗している星矢に、助け舟を出したのは紫龍だった。
星矢の推理が真っ当だった地点に立ち返り、紫龍が改めて“容疑者”の絞り込み作業に着手する。

「あの時は、7、8人くらいずつの子供が 毎日 それぞれの修行地に送られていた。第一陣から最終まで2週間ほど。南北アメリカ大陸組とオーストラリア組が先に送られて、瞬は船の都合で、ちょうど真ん中頃だったと記憶している。瞬より先に修行地に送られた者たちを除くと、候補者は50人以下に絞られるな。瞬が修行地に送られた日に 瞬に手紙を届けることのできた子供が50人いたとして、その50人の中に、カナダに送られた檄を除き、聖闘士になることのできた9人が含まれる。手紙の送り主の生存率は 結構 高いのではないか」
瞬を励ますつもりで 紫龍はそう言ったのだが、それは 効果的な励ましには なっていなかった。
それは、90パーセントの死亡率が80パーセントに下がったということでしかない。
そして、“その人”の死亡率がどうであれ、100人の子供たちの生存率、50人の生存率がどれほどのものであったとしても、90人の子供が帰ってこなかった事実は変わらないのだ。

「でもさ。犯人が生きてるとして、だったら なんで、そいつは 名乗り出てこないんだよ? 別に悪いことしたわけじゃないのに。名乗って励ましの手紙出すのは かっこ悪いけど、きつい時期が終わった今になって、あれは自分だったんだって名乗り出るのは、割とかっこいいだろ」
「そのあたりの事情は、当人に聞くしかあるまい」
もし、“その人”が生きているのなら。
「そりゃ、そーだ」

少年探偵団は、安楽椅子探偵の対極に位置する集団。
少年探偵団のメンバーは、情報は足で稼ぐ。
星矢(と紫龍)は早速、邪武、市、那智、蛮と、念のために檄にも 探りを入れてみたのだが、五人は竜胆の花も その花言葉も、鏡文字の手紙のことも知らなかった。
星矢に その事実を知らされた瞬は、“その人”は やはり90人の中の一人だったのかと落胆することになってしまったのである。
そこに、思いがけない事件が起きた。






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