誰も望んでいないのに。 「違うっ。瞬にあの手紙を出したのは俺だっ。一輝なんかのはずがないっ!」 誰も望んでいないのに、誰も望んでいない真実を、氷河は仲間たちの前で暴露してしまっていた。 ほとんど 反射的に。 「鏡なぞなくても、あの字は簡単に書ける。普通に書いた文字を裏返しにしてガラスに貼りつけ、裏面を透かして書けばいいだけだ! 便箋を使わなかった理由は 貴様の言う通りだが、だからといって、その事実だけで、あの手紙の送り主を 城戸邸にいた子供に限定できるわけがないだろう。瞬に生きて帰ってきてほしいと願っている者が一輝以外にもいると、わざわざ一輝が瞬に知らせる必要はなかった。実際、そういう奴は いくらでもいたんだから。名を名乗らず、鏡文字を使ったのは、筆跡をごまかすためではなく、あえて謎めいた書き方をすることで、瞬の注意を引くため。ただの励ましの手紙と受け流されてしまわないようにするためだ。手紙という手段を使ったのは、それが 直接 口で伝えられる一輝以外の者からのメッセージだということを、瞬に気付いてもらうため。あの一輝が、瞬に手紙を出したりするものか! 奴は、そんな まだるっこしいことができる男じゃない! そんな穴だらけの推理を、よくも そんな得意顔で、瞬の前に披露できたもんだな!」 “立て板に水”というより、ハリケーンの直撃を受けたイグアスの滝並みの勢いと速さで、氷河は まくし立てた。 氷河は、まなじりを決して インチキ探偵を睨みつけている。 だが、それでも 紫龍は狼狽もせず、顔色一つ変えなかった。 変えずに、氷河の言うところの“得意顔”をキープしている。 氷河が とりあえず、言いたいことを言い終えた(らしい)ことを確認すると、彼は その目許と口許に微笑を浮かべさえした。 そして、彼は、 「さすがに、一輝と一緒にされるのだけは嫌だったか」 と、静かな声で言った。 「……!」 今度こそ本当に得意顔になった紫龍を見て、氷河は自分が龍座の聖闘士の誤導尋問に引っ掛かってしまったことに気付いたのである。 一輝ではない誰かだと、瞬に わかってもらうための手紙。 瞬に慕われている一輝への対抗心。 『マーマがいちばん』、『マーマが唯一にして無二』と公言していた手前、それをしたのが自分だと余人に知られるわけにはいかないという事情。 様々な都合と条件が重なり合って、氷河は あの手紙を出すことになったのだが、要するに 事実は そういうことだった。 紫龍の誤導尋問に引っ掛かった自身の迂闊には腹が立つ。 紫龍の得意顔は 癪に障る。吐き気がするほど 忌々しい。 だが、それ以上に。 それ以上に、氷河は、瞬の顔を見るのが恐かったのである。 期待以上、希望以上に素晴らしい結末。 望んでいた以上に感動的な答え、望んでいた以上に嬉しい帰結。 これ以上を望むべくもない、理想的かつ最高の結論。 それを、氷河は、くだらない事実、詰まらない真実で上書きしてしまったのだ。 瞬は がっかりして、自分に 詰まらない真実を押しつけてきた男を恨んでいるかもしれない。 氷河は、瞬の顔を見ることができなかった。 氷河にとっては幸いなことに、氷河の暴露した詰まらない真実に 文句をつけてきたのは、瞬ではなく星矢だった。 「でも、おまえ、花を贈るのはマーマだけだって言ってただろ!」 瞬ではない分、気楽だが、星矢の馬鹿げた揚げ足取りには いらいらする。 「俺は そんなことは言っていない。俺は、薔薇の花を贈るのはマーマだけだと言ったんだ」 「んな屁理屈……。だから、薔薇の花じゃなく 竜胆の花を贈ったのかよ? おまえ、竜胆の花言葉なんか知ってたのかよ?」 「竜胆の花言葉? そんなものは知らん。そもそも俺は、あの花の名が竜胆だということすら知らなかったんだ。赤や黄色の花よりは 青い花の方が俺っぽいかと思っただけだ」 「そんな理由かよ!」 そんな理由である。 真実は、そんなもの――そんな詰まらないものなのだ。 瞬は、その詰まらない真実を どう思っているのか――。 あの手紙が兄からのものだったと言われ、瞳に涙を――どう考えても 感動の涙を――にじませていた瞬。 瞬の涙は、今は、詰まらない真実を知らされたことを悲しむそれに変わってしまっているのだろうか。 いつまでも黙っているわけにもいかず、氷河は 腹をくくって――だが、瞬の顔は見ずに――詰まらない真実を、瞬に詫びたのである。 「一輝でなくて すまん」 と。 せっかく瞬の手には、期待以上 希望以上に素晴らしい結末が渡されていたのに、それを奪い取って 床に叩きつけるようなことをしてしまった。 自分に そんな真似をさせてくれた紫龍には腹が立つし、馬鹿げた揚げ足取りをしてくる星矢にも むかつくが、瞬にだけは心底から申し訳ないと思う。 何も悪いことをしていないのに、瞬は 味わわなくてもいい失望を強いられてしまったのだ。 瞬なら『氷河は悪くないよ』と、瞬なら『誰も悪くない』と言ってくれることがわかっているからこそ一層、氷河は心苦しかったのである。 瞬が責めるのは、仲間に そんなことをさせてしまった瞬自身なのだということが わかっているから。 普通の人間のように、瞬も、自分自身ではなく他人を責める人間だったら、どんなにいいか。 『氷河の馬鹿!』と なじられる方が、『氷河は悪くないよ』と許されるより、ずっと 過ちを後悔せずに済むのに。 ――と、氷河は おかしな期待をした。 氷河の期待は、だが、叶えられてしまったのである。 『氷河は悪くないよ』と許してくれるはずだった瞬が、 「どうして、ほんとのことを言ってくれなかったの」 と、氷河を責めてきたのだ。 「なに?」 期待通りなのに 思いがけなくて――氷河は 事ここに至って初めて、瞬の顔をまともに見たのである。 瞬の瞳は濡れていなかった。 きらきらと明るく輝いていた。 もしかしたら、喜びのために。 氷河は、つい、 「一輝の方がよかったんじゃないのか?」 と、問い返してしまったのである。 「え?」 「俺より、一輝からの手紙だった方が嬉しいというか、期待以上というか、望外の幸いというか――」 瞬には、氷河の氷河らしからぬ卑屈が奇異に思われたのかもしれない。 一瞬 きょとんとした顔になり、それから 花がほころびるように 瞬は笑った。 「そんなこと、あるわけないでしょう。期待以上っていうのは、期待外れっていうことだよ。僕は ずっと、あの手紙を僕に届けてくれた人が氷河だったらいいなって思ってたの。期待してたことが そのまま叶って、すごく嬉しい!」 瞬は、その言葉通り、本当に嬉しそうだった。 澄んで晴れ渡った秋の空のように、瞬の瞳は 明るく輝いている。 だから、氷河は――氷河も嬉しくなってしまったのである。 澄んで晴れ渡った秋の空のように、嬉しくなった。 詰まらない真実が 詰まらないものだとは限らない。 真実が 詰まらないものなのか、価値あるものなのか、不幸なものなのか、幸福なものなのか。 それを決めるのは、おそらく 真実に対峙した人の心なのだ。 秋の空は、今日も澄んで晴れ渡っていた。 Fin.
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