幾度も『ゲージュツテキ!』と歓声をあげながら、ナターシャが あらかたランチを食べ終わると、氷河は今度は “イチョウ並木の中に立つナターシャ”や“イチョウの葉っぱを拾うナターシャ”の撮影に取り掛かり始めた。 氷河は おそらく、それらの写真を星矢たちに(無理矢理)見せ、感想を求めるだろう。 似たような写真を何十枚も見せられて、写真の数だけ『可愛い』と言わなければならなくなる星矢たちに、瞬は少々 同情していた。 そんな瞬に、 「可愛らしいお嬢さんですね」 と 声をかけてきた人物が一人。 それは、瞬たちが着いている席の すぐ隣りのベンチに腰かけていた老婦人だった。 その眼差しが、『どうしても話しかけずにいられなかったのだ』と、言葉にはせず、瞬に訴えてくる。 瞬は もちろん悪い気はせず――むしろ、大いに喜んで老婦人に会釈をした。 「ありがとうございます」 「ナターシャちゃんとおっしゃるの? パパとママは綺麗で お若くて――絵に描いたように素敵なご家族。ゲージュツテキ!」 彼女は なかなか お茶目なご婦人らしく、ナターシャが 今日 覚えたばかりの言葉を口にして、楽しそうに笑った。 「あ……」 微笑む老婦人に 何と応じたらいいのかを 瞬が 暫時 迷ったのは、自分が当然のごとくに“ママ”に見られてしまったことに戸惑ったからではなく、老婦人の隣りには 夫君らしき男性が 一人いるだけだったから――だった。 子供のいないご夫婦だったなら 迂闊なことは言えない――と、思ったのである。 瞬の懸念を察したのか、老婦人が、 「うちの娘は、遠くに お嫁に行って――頻繁には会えないんです」 と言って、瞬の懸念が杞憂だということを言外に知らせてくる。 否、老婦人には その意図はなかったのかもしれない。 彼女は ただ、ナターシャの姿に 彼女の娘の幼い頃の様子を重ね見て、懐旧の念に捉われていただけだったのかもしれなかった。 老婦人が くすりと短い笑い声を洩らす。 それは どうやら 思い出し笑いだったらしい。 彼女は 彼女の隣りにいる老紳士に ちらりと一瞥をくれてから、瞬の方に向き直った。 「きっと、ナターシャちゃんが お嫁に行く時には ナターシャちゃんのパパも大騒ぎですよ。うちがそうでしたもの」 夫人の視線の意味を察して、綺麗な白髪の夫君が ぴくりと唇の端を引きつらせる。 が、彼は、お喋りは細君に任せるタイプの夫のようで、言葉は一言も発しなかった。 彼は、少々 寡黙で頑固なところのある男性らしい。 「今から びくびくしています」 瞬が老婦人に そう答えると、人生の先達は、瞬に実に有難い忠告を垂れてくれた。 「早くから覚悟していた方がいいですよ。ウチの“パパ”は、イチョウの木のように でんと構えていることができませんでしたから」 「それは――」 『大変でしたね』と続けたら、彼女の夫君が気を悪くするだろう。 その事態を避けるために、瞬が言葉を途切らせたところに、 「ナターシャは嫁にはやらんぞ!」 という、氷河の声が割り込んでくる。 「氷河!」 ここで、そんな親バカ振り――というより、バカ親振り――を発揮しないでほしい。 ナターシャのパパの名を呼んで、瞬が氷河をたしなめると、パパがマーマに叱られたと思ったのか、素早く ナターシャが氷河の援護にまわった。 「ナターシャは、ずっとパパと一緒にいるヨー」 親バカの父親と パパ大好き娘の連携プレイ。 ナターシャが援護についた氷河には、瞬でも――乙女座の黄金聖闘士の力をもってしても――太刀打ちできず、白旗を揚げることになるのが常だったのだが、今日は違っていた。 もとい、瞬自身は いつも通りに白旗を揚げかけたのだが、その手を老婦人が押しとどめたのだ。 彼女は、ナターシャの『ナニー?』『ナンデ?』『ドーシテー?』と肩を並べるほど 強大な力を有する剛の者だったのである。 「うちの娘も、小さな頃は そう言ってました」 やわらく微笑んで、老婦人が 鮮やかな反撃を見せる。 「……!」 亀の甲より年の功。 一般人の華奢で穏和そうな老婦人に、水瓶座の黄金聖闘士が やりこめられる図。 滅多に見られない場面を目の当たりにして、瞬は思わず 彼女を尊敬してしまったのである。 彼女自身は、自分が水瓶座の黄金聖闘士を一撃で打ち倒してしまった自覚がないらしく、相変わらず、にこやかに微笑んでいるだけだったが。 「それが子育てというものなのに、どうして父親というのは、娘の独り立ちを素直に喜べないんでしょうね」 悪意なく穏やかに微笑む品のいい老婦人への反撃に及ぶわけにもいかず、氷河は ひたすら顔を引きつらせるばかり。 老婦人の夫君が、仏頂面で、 「よそ様に、何を話しているんだ。行くぞ」 と言って 掛けていたベンチから立ち上がっていなかったら、か弱い老婦人の第二次攻撃で、氷河は完全に息の根を止められていたかもしれない。 夫君が仏頂面なのは、夫としての体面を守るために――というより、同じ父親として 氷河の立場を慮ったから――のようだった。 「はいはい」 夫君に差しのべられた手を取って、夫人がベンチから立ち上がる。 「『はい』は1回」 「はいはい」 夫人は夫君を 軽くいなして、瞬に苦笑を隠した一瞥を投げてきた。 「イチョウ並木も あと数日ですよ。楽しんでらして」 「はい」 「ナターシャちゃん、さようなら」 「ばいばい、またネー!」 「あら」 ナターシャに『また』と言ってもらえたのが嬉しかったのか、老婦人が笑顔の上に 更に微笑を重ねる。 イチョウ並木の中を 二人で歩いていく夫妻の後ろ姿に、氷河が送った敗戦の弁は、 「あそこも、マーマが いちばん偉そうだ」 だった。 そして、瞬は いずれ 自分たちにも あんなふうに二人で この道を歩く日が来るのだろうかと、秋めいた気持ちで 老夫婦を見送ったのである。 静かで 穏やかな秋――。 そんな季節の空気に、瞬が長く浸っていられなかったのは、そこに突然、痛いほど激しい視線が突き刺さってきたからだった。 灼熱の夏と 極寒の冬が 同時に秋に雪崩れ込んできたような、苛烈な視線。思念。 (敵…… !? ) 瞬は、まず その事態を考えたのである。 |