「子供の感じ方って、様々だね。ヒツジと男の子がかわいそう……かぁ」 ナターシャは お昼寝の時間。 日曜の夜は、氷河は店には行かず、瞬も今日は休みなので、パパとマーマと過ごす夜に向けて エネルギー充填の必要を感じたのか、ナターシャは今日は特に いい子で お昼寝モードに入ってくれた。 ナターシャを寝かしつけてリビングルームに戻ってきた瞬は、テーブルの上で 最終ページが開かれたままになっていた絵本を手に取り、しみじみと呟いたのである。 朝から降っている冷たい雨は 止む気配がない。 今日はもう外に出ることはないという判断ゆえか、ナターシャが念入りにセットしてくれた(?)髪を崩したくないからなのか、氷河の髪はナターシャのイイコイイコで くしゃくしゃにされたままだった。 「俺なぞ、初めて あの話を読んだ時は、まず村人たちの怠慢に腹を立てたがな。最初に あのガキが嘘をついた時に、本物の狼でも けしかけておけばよかったんだ。そうすれば、あのガキも嘘を繰り返さなかった。最初の嘘を なあなあで済ませた大人たちが いかん」 子供の感じ方は様々――と、瞬が思うのは、ナターシャの感じ方が自分のそれと違っていたからである。 違ってはいたが、ナターシャの気持ちは わかる。 しかし、氷河の感想は、ナターシャの感想とも瞬の感想とも、その方向性が まるで違っていた。 次元が違う――と表していいほどに違う。 「氷河が初めて『狼と少年』の話を読んだのは、何歳の時なの。それって、子供の考え方じゃないよ」 「俺はまだ、いたいけな子供だったぞ。城戸邸で ろくでなしの大人ばかり見ていたから、思考回路が まず大人を責めるようにできていたんだ」 「ああ。そういう……」 しかし、そういう事情で その感想なら、次元が違っても、理解はできる。 瞬は、少し 切ない溜息と共に、氷河に頷いた。 親や教師といった 子供を指導し育てる立場にある大人たちも過ちを犯すことはある――という事実を子供が知るのは、一般的には何歳くらいなのだろう? 無論、個人差はあるだろうが、少なくとも 大人の手を借りなければ生きていることができない幼い子供たちにとって、“大人”は絶対の存在と言っていい。 だが、聖闘士になるために城戸邸に集められた子供たちは、一般家庭で育てられている子供たちより、“大人は 子供より正しい”“大人は 子供より優れている”と信じていられる期間が 極端に短かった。 城戸邸に引き取られた瞬間に、その期間が終わったといえるかもしれない。 今のナターシャのように、“大人(マーマ)は絶対に正しい”と無条件で信じていられる幸福な時間も、そう信じさせてくれるような大人も、当時の城戸邸には存在しなかったから。 「狼をけしかけるっていうのは過激すぎると思うけど、でも、それが正しい対処法だったのかもしれないね。最初に ちゃんと注意してあげていれば、羊飼いの男の子は嘘を繰り返さなかった。イソップのお話は、その注意のためのものなんだよ」 子供の頃には“悲しいお話”でしかなかったものが、大人になると“教訓話”になる――教訓話だと わかってしまう。 人は、“お話”には 子供でいるうちに 少しでも多く触れていた方がいいのだろう――と、瞬は思った。 その方が“お話”を純粋に楽しむことができる――と。 そんなふうに、大人の考えることを考えていたので、氷河の、 「おまえは?」 は、瞬には、ちょっとした不意打ちだったのである。 「え?」 それが『狼と少年』の物語を最初に読んだ時の感想を求める『おまえは?』だということに気付くのに、瞬は1、2秒ほどの時間を要した。 それから 更に その10倍ほどの時間をかけて、その時の記憶を 思い出の中から取り出してくる。 「僕は……どうして、村の人たちは男の子を最後まで信じてあげなかったんだろうって思ったよ。何度 嘘をつかれても、最後まで信じてあげていれば、男の子を助けてあげられたのに……って。僕が最初に読んだ『狼と少年』は、羊飼いの男の子が狼に食べられちゃう結末のものだったから」 「最後まで信じて助けてやる、か。おまえらしい」 呟くように そう言って、氷河が口許に笑みを刻む。 それが 氷河にしては大人らしい振舞いだったので、氷河の邪心は消えたのだと判断し、瞬は彼の掛けているソファの隣りの場所に腰を下ろした。 「世の中には、感想文コンクールっていうのがあるようだけど、感想文の優劣って、どんなふうに決めるんだろうね。人の感じ方は 人それぞれで、どれが間違っているとか 正しいとか、一概に評価できるものじゃないと思うのに」 「おそらく、『ボクは、嘘をつくのは よくないと思いました』というのが一等賞なんだろう」 「そうなのかな……。僕は、羊さんや男の子をかわいそうだと感じるナターシャちゃんの感性を守ってあげたいよ」 ナターシャの優しい気持ちは そのままに、だが、過去の悲しい記憶は消し去ってほしい。 それが実現の難しい望みだということは、瞬にも わかっていた。 ナターシャが優しい心を持っているのは、過去に悲しい出来事を経験してきたからなのだ。 ひとりぽっちで 戦場だった場所に取り残され、夜の街でパパを求め さまよっていた時の記憶を失えば、ナターシャは孤独で寂しい人の心を察し 思い遣ることができなくなるかもしれない。 悲しみや苦しみを乗り越えることで、人の心は強くなるものだということは、瞬とて わかっていた。 自分と自分の仲間たちは、そうして強くなってきたことを実感してもいる。 悲しい出来事を忘れてほしいと願うことは、ナターシャの強さを信じていないことでもあると、それも わかっている。 それでも忘れてほしいと願うのは、“親”の愚かさなのか――。 『神は、乗り越えられる者にしか試練を与えない』 使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙』で、そう記している。 だが、現に 試練を乗り越えることができずに破滅する人間は多くいる。 その言葉は、試練を乗り越えることができた人間にしか言えない言葉。 そして、試練を乗り越えることのできた人間が口にすれば、傲慢でしかない言葉。 今のところ 試練を乗り越えることができている人間だからこそ、瞬は その言葉を口にしたくなかった。 ふいに――僅かに 瞼を伏せ考え事に没頭していた瞬の首筋に、後ろから氷河の手が触れてくる。 瞬の身体が冷えていたのか、氷河の手が熱すぎるのか、ともかく その感触に驚いて、瞬は我にかえった。 「おまえを蠱惑的だと感じる俺の感性も守ってほしい」 氷河の持ち出してきた話題が あまりに軽くて、瞬の身体からは 力が抜けてしまったのである。 『おまえは余計なことを、無駄に真面目に考えすぎる』と、氷河の指は 瞬に忠告していた。 瞬は、身体だけでなく 心からも力が抜けてしまったのである。 気持ちが軽くなり、口も少々 軽くなった。 「氷河の感性は特殊すぎ。僕に そんなものを感じるのは氷河くらいだよ」 「なら、いいんだが。そうじゃないから、俺が苦労する。おまえは 人に懐かれすぎないように、俺を見習って、もう少し不愛想にしていた方がいいんだ。それくらいで ちょうどいい」 「医者が不愛想にしていたら、患者さんが不安になるの」 「おまえが誰にでも優しい顔をしてみせるから、俺が不安になる」 人の感じ方は――考え方も、立場によって 人それぞれ。 ページ数 僅か8ページほどの絵本で 深刻に人生を考える人間もいれば、無駄に真面目に考えすぎる仲間を 日曜の真っ昼間から そんなセリフで口説き始めることを是とする男もいる。 日曜の真っ昼間から――瞬は もちろん、その誘惑には乗らなかったが、氷河の忠告には従うことにした。 瞬同様、ナターシャの幸せを願ってはいるが、氷河はナターシャの記憶を消し去ることは考えていない。 消さずに、幸福な記憶で それを覆い尽くそうとしている。 彼が彼の大切な人たちを失った事実を、仲間たちと共に過ごした時間の記憶で、普段は覆い隠しているように。 氷河は、ナターシャには 乗り越える力があると信じている。 もし その力が足りなかったとしても、その時には ナターシャのパパとマーマが力を貸してやればいいだけなのだと考えている。 おそらく、それで いいのだ。 それが正しい。 「僕が 氷河にだけ優しい顔を見せないのは、氷河が 僕にとって特別な人だからだよ」 『良くも悪くも、色々な意味で』 瞬が言葉にしなかった、事実でもあり皮肉でもある その言葉は、氷河に届いていただろうが、彼は 素直に瞬に言い含められた振りをしてくれた。 羊飼いの少年に道を誤らせたのは、やはり 彼が孤独だったから。 そして、彼に信じられる仲間がいなかったから。 そうだったのだろうと、瞬は思ったのである。 |