どこからともなく現れた その男。
それは もちろん、言わずと知れた瞬の兄である。
「瞬。何があった」
けやき広場の一角で小宇宙を燃やし睨み合っている二人の男を嫌そうに一瞥してから、一輝は最愛の弟に向き直った。

「兄さん……」
瞬が 兄の出現を素直に喜べず、むしろ困惑の表情を浮かべたのは、この事態が 敵の襲来ではなく 自身のミス―― ナターシャから目を離した自分のミスによって引き起こされたものだと、瞬が考えているからだったろう。
この状況に いかなる責任も感じていない星矢と紫龍は、一輝の登場を素直に歓迎した。
「相変わらず、瞬がピンチとなると神出鬼没だな」
アテナの結界によって守られている聖域を自由に移動し、アテナの血の加護がなくても 地上世界と冥界を自由に行き来する男。
そして、どう考えても ハーデスの好みの範疇外の容姿の持ち主。
一輝は、氷河が冥界に行くより確実で、瞬が冥界に行くより安全な男だった。

瞬の兄の登場に気付いた氷河が、光速で、むっとする対象を デスマスクから一輝に変更する。
それでも 彼が一輝に噛みついていかなかったのは、一輝ならナターシャを冥界から連れ戻すことができるかもしれないという判断が働いたからだったろう。
そして、それは瞬も同様だった。
この事態を招いた責任が自分にあっても――きまりが悪くても、申し訳なくても――ナターシャを救うためには 自分の体面など気にしていられない。
それでも 少し遠慮がちな口調で、瞬は 兄に事情を説明し始めた。

「ナターシャちゃんがハーデスに さらわれたようなんです」
「ハーデスがナターシャを さらった? なぜだ」
「わかりません。ハーデスと組んだ 顔の無い者が、裏切者の粛清のために ナターシャちゃんを冥界に さらったという可能性もないではないですけど――。顔の無い者とハーデスでは、その力に雲泥の差がある。そのことを考えると、もし 顔の無い者が この件に絡んでいたとしても、それは ハーデスに利用されているだけなのではないかと思うんです。ハーデスの狙いは、僕なんじゃないかと――」

自分のために ナターシャの身が危険に さらされているのかもしれない。
その可能性を考えることは、瞬には途轍もない苦痛だった。
ナターシャは、絶対に救い出さなければならない。
だが、そのために 我が身がハーデスに利用されるようなことになったら、その時 災厄に見舞われるのは、ナターシャと多くの人間が命と心を預けている、この地上世界なのだ。
すぐにでも、ナターシャを救いに行きたい。
しかし、ハーデスとの接触は避けたい。
それが、瞬の焦慮と躊躇だった。

瞬の苦衷を察した一輝が 即座に、そして、いかなる逡巡も見せずに、彼の判断と決断を瞬に知らせてくる。
「おまえが冥界に行くのは危険だ。氷河が行っても、ものの役にも立つまい。冥界へは俺が行く」
『ものの役にも立つまい』とは、言いたいことを言ってくれるものである。
氷河は、怒りで爆発しそうになり、だが 今は ナターシャのために爆発するわけにもいかず――おかげで氷河は、憤死寸前だった。
ナターシャを安全に確実に救い出すために 爆発できず、そのせいで 憤死寸前になっている氷河は、だが 憤死もできない。
冥界から救い出され、無事に地上世界に戻ってくることができたとしても、パパが死んでいたのでは、ナターシャが悲しむだろう。
氷河は二律背反に陥り、動けなくなっていた。

「もうさ、この際いっそ、みんなで冥界に乗り込んじまうってのはどうだ?」
と 星矢が提案したのは、氷河の爆死もしくは憤死を回避するためというより、爆死もしくは憤死したパパを見て ナターシャが悲しむ事態を避けるため、そして、爆死もしくは憤死した氷河の後始末をしなければならなくなる瞬を気の毒に思うからだった。
氷河は、ナターシャのパパではなく 一輝がナターシャを救う事態が我慢ならないのであって、“皆が力を合わせてナターシャを救う”のであれば、氷河も まだ許容できるのではないかと、星矢は考えたのである。
だが。

『邪魔しちゃダメ』
そこに、星矢の提案を却下する声(?)が響いてきた。
「ん?」
最初に その声(?)に反応を示したのはデスマスクだった。
秋の日は つるべ落とし。冬の日は、更に暮れるのが早い。
いつのまにか街路灯の灯りがともっている公園の あちこちに、落ち着きなく視線を飛ばすデスマスクに、星矢が眉を ひそめる。
「どうかしたか?」
「いや……今、なーんか、死ぬほど嫌な感じが……」

『一輝だけ来なさい』
その声は、実は星矢には聞こえていなかった――聞こえている者と聞こえていない者がいた――聞こえているのは、デスマスクと一輝だけだった。
「一輝は自力で冥界に行けるからいいとして、俺たちはデクマスクに運んでもらって、そんで、俺たち全員の小宇宙で――」
『余計なことをするんじゃないわよ……!』
「みんなで力を合わせて、ナターシャを救い出すのなら、氷河にも文句はないだろ」
『だから、余計なことはするなって言ってるでしょーっ !! 』

一輝とデクマスクにだけ 微かに聞こえていた その声が、突然 明瞭な音になって、アテナの聖闘士たち全員に聞こえるようになったのは、その声の音量が大きくなったからではなかった。
彼等は全員、その声の主によって、その声の主のいる場所に運ばれてしまっていたのだ。
東京都練馬区光が丘公園の けやき広場から、半ば以上破壊された黄泉比良坂へと。
一瞬 何が起こったのかがわからず、周辺の様子を確かめようとしたアテナの聖闘士たち。
その中の一人の上に、
「ピーチアターック !! 」
の声と共に、男が一人 降ってくる。
ただ降ってきただけなのに、まるで500メートル分の重力加速度が加わったような 凄まじい衝撃で、その男はデスマスク(まがりなりにも蟹座の黄金聖闘士である)を一撃で倒してのけた。

「ぐえぇぇぇっ!」
牛ガエルが牛に押しつぶされたような声を上げて、デスマスクが地面と落下物(の尻)の間に挟まれて 半死半状態になる。
もともと死人だからといって心配せずにいることもできず、瞬は青ざめ慌てたのだが、瞬が瀕死のデスマスクに駆け寄ろうとする前に、
「一輝、久し振りー! 260――270年振りかしらあ!」
という妙に浮かれた声が、瞬の動きを中断させた。






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