「氷河……?」 なぜ氷河が、教皇の許しも得ずに 教皇の間に入ってきたのか。 いつになく静かでクールな氷河の表情、眼差し、佇まいを、瞬は訝ったのである。 それが彼の激しすぎる怒りによって作られたものだと気付いていたら、瞬にも 対処のしようがあったろう。 しかし、一見した限りでは 氷河の態度は 極めて冷静なもので、それゆえ 瞬は、それが水瓶座の黄金聖闘士の絶対零度に近い凍気によって覆い尽くされた低次元の怒りだということに、すぐには気付くことができなかったのだ。 そして、その一瞬の遅れが命取り。 その一瞬が終わる前に、瞬は その場で――玉座に着いている教皇の目の前で――氷河に 唇を ふさがれるという、とんでもない災厄に見舞われてしまった。 瞬の唇を ふさいだのは もちろん、氷河の唇である。 氷河の突拍子のない常識外れの振舞いのせいで――氷河の小宇宙ではなく、非常識な振舞いのせいで――瞬の心身は、逃げる間もなくフリージングコフィンを見舞われた薄桃色のチューリップの花のように、その場で凍りついてしまったのだった。 氷河の凍気技を直接 受けたわけでもないのに、その余波で、カノンの顔と思考までが凍りつく。 善悪の心の狭間で苦悩し、結局 悪の心に支配されてしまった実兄サガ。 そんな兄への対抗心から地上世界に大いなる災厄をもたらすことになった自分自身。 人間というものの弱さ、愚かさ、醜さ。 それらによって引き起こされる修羅の場面は幾度も見てきたが、この手の修羅場を目撃するのは、カノンも 初めてだったのだろう。 そもそも 彼は、それが愛が生む妄執を主原因とした修羅場であることに、おそらく気付いていなかったに違いない。 突然、黄金聖闘士同士のラブシーンを見せられて呆然としていたカノンが、数分の時間は要したものの、氷河のフリージングコフィンから自力で脱してみせる。 さすがはアテナに見込まれて教皇に任命された男。 その力は、尋常の聖闘士のものではない。 ――が。 「瞬は男子のはずだが……」 怒りに燃えた氷河の(精神的)フリージングコフィンから自力で脱するほどの尋常ならざる力を持った男が、何という常識まみれの呟きを呟くことか。 全裸教皇で勇名を馳せた あのサガの実弟とも思えないカノンの常識人振りに感動し、おかげで 瞬は――瞬も、なんとか氷河のフリージングコフィンから抜け出すことに成功したのである。 「氷河っ。なに考えてるのっ !! 」 「おまえのことしか考えとらんっ」 「地上の平和を守るために存在する黄金聖闘士が それでいいと思ってるんですかっ」 氷河を 力いっぱい叱責してから、これは黄金聖闘士として どうこうという問題ではなく、それ以前――むしろ、一個の人間として多くの問題を内包した問題行動なのだということに、瞬は 思い至ったのである。 思い至ったところで、何が解決するわけでもなかったが、ともかく 瞬は思い至った。 一個の人間として多大な問題を抱えている水瓶座の黄金聖闘士は、瞬に叱りつけられても、反省する素振りも改心する素振りも見せなかったが。 「黄金聖闘士なんて、好きでなったわけじゃないっ。俺は どこぞの助平教皇と違って、地位にも権力にも全く興味はない。そんなものは邪魔なだけだ!」 「俺だって、好きで教皇になったわけではないぞ。もともと 俺の柄じゃないんだ、教皇なんて」 口の中で ぶつぶつ ぼやいてから、 「私も、望んで教皇の地位に就いたわけではないぞ」 と、一人称を“俺”から“私”に変えて、カノンが氷河の一方的な決めつけに 物言いをつける。 が、残念ながら、氷河は、それが たとえ自身の上司たる教皇であっても、彼が興味を持っていない人間の言い分を まともに聞く男ではなかった。 「毎日毎日、日に何度も瞬を呼びつけて、二人きりで教皇の間に閉じこもって、貴様、俺の瞬に何をしているんだっ !! 」 氷河が難詰した相手は、乙女座の黄金聖闘士と水瓶座の黄金聖闘士のバカンス計画を邪魔してくれた無粋極まりない男だったのだが、 「氷河の考えているようなことはしていません!」 氷河に答えを返したのは、無粋男の被害者の一人であるはずの瞬の方だった。 「状況が よく わからんのだが……これはいったいどういうことだ?」 「何でもないんです!」 氷河を怒鳴った勢いが余って、瞬は ついカノンまで―― 一応教皇である――怒鳴りつけてしまった。 瞬には、だが、その不敬を反省する時間も与えられなかったのである。 「瞬は俺のものだっ! 教皇の権力と地位を かさにきて 瞬に手を出すなっ。このド助平野郎!」 「氷河っ !! 」 氷河を言葉で説得し なだめようとしたのが、そもそもの間違い。対処方法の選択ミスだったのだ。 そうと悟った瞬は、ほとんど反射的に、氷河の怒りの小宇宙に 自らの小宇宙で対抗することを開始した。 どこからともなく飛んできた金色の鎖が、氷河を その手足ごと 雁字搦めにする。 それだけでは氷河の口を封じることはできないと感じた瞬の戦士としての直感は、瞬の意思とは ほとんど関係なく、教皇の間に嵐を生み始めていた。 水瓶座の黄金聖闘士の愛と妄執の小宇宙。 その小宇宙を押さえつけようとする乙女座の黄金聖闘士の焦慮の小宇宙。 二つの強大な小宇宙の激突に触れて、カノンまでが――彼は防御のために――小宇宙を燃やさざるを得なくなり、今や 教皇の間は、そこに教皇の間が存在できていることが奇跡に思えるほど、とんでもないことになっていた。 三人の黄金聖闘士が同時に その小宇宙を爆発させたなら、それはアテナエクスクラメーションである。 「遅かったか……」 言葉通りに 駆けつけるのが遅すぎた紫龍が、燃え盛る三つの小宇宙の前で 万事休すのポーズを取る。 たった今 聖域にいる すべての人間が、世界の破滅を予感し、恐れ おののいていることだろう。 紫龍は 蒼白になり、そして、両手で頭を抱え込んだ。 |