希望という名の悪い夢。 これは、星矢たちの言葉に毒された俺が見ている悪夢なんだろうか。 俺は夢を見ているんだろうか。 夢にしては、何もかも すべてが鮮明。 鮮明でないのは、俺の存在だけだ。 俺は どこにいる? 俺は、どこから この光景を眺めているんだ? 暗い――暗い世界だ。 完全な闇ではないが、光はない――明るい光がない。 太陽がどこかに消えてしまったような――それとも 太陽は どこかに隠れているんだろうか。 恐竜が絶滅したのは、直径10キロを超える巨大隕石が地球に衝突して 大量の粉塵が地球の表面を覆い、それによって太陽光が遮断されて長い冬が続いたせい――と言われているそうだが、まさに そんな感じだ。 空に 厚く暗い膜が張られて、太陽の光が地上に届いていない。 光を失った地上世界では、すべての命が死滅し、人間の姿はない。 動植物も――僅かに苔のような黒い何かが死んだように地面に貼りついているだけだ。 星矢も紫龍も一輝もいない。 アテナの小宇宙も感じられない。 そんな暗い世界のどこかに 不吉な城が一つあった。 それが黒い城に見えたのは、世界そのものが暗いから。 もしかしたら それは、本当は白亜の城なのかもしれない。 その城の奥まったところにある広間に、幾つかの命がある。 人間の形をした命。 その中の一人は瞬だった。 瞬……なんだろうか? 造形だけが瞬。 髪や瞳の色は違う。 漆黒の、闇の色の髪。 漆黒の、悲しみの色に沈んだ冷たい瞳。 身にまとっている衣装も闇の色。 それらのものと対照的な顔の白さが、病的に感じられる。 瞬の形をした それは、不吉な色の禍々しい装飾が施された玉座に 身を預けていて、その足許で 長い黒髪の女がハープを弾いていた。 音は澄んでいるのに、辛気臭い戦慄。 まるで 葬送曲のようだ。 どこかで聞いたことがあると思ったら、サティのジムノペティ。 あれは 一応、ギリシャの神々を称える曲のはずだが、ピアノでなくハープで弾くと こうなるのか。 聞いているだけで滅入ってくる。 ハープを弾いている黒衣の女より はるかに下座に、聖衣に似た鈍色の鎧をまとった男たちが三人 控えていた。 中の一人は寝ているようだ――まさか死んではいないだろう。 こんな陰鬱な曲を聞かされて、明るく元気でいろという方が無理というもの。 目を開けている二人の方も、ほぼ無表情。 玉座に掛けている瞬の顔をした黒衣の男も 憂い顔で――退屈そうだった。 ハープの音が、ふいに途絶えた。 「ハーデス様、どうされました。パンドラの演奏が お気に召しませんでしたか」 ハープを弾いていた女の名はパンドラというらしい。 そして、瞬の顔をした 気怠げな男の名はハーデス。 ハーデス? それは、冥府の王の名、アテナの敵の名じゃないか? ここは いったいどこだ。 そして、今は いったい いつだ? 「何もかもが空虚に感じられてならない。余は何をしたのだ。余のしたことは無意味だったのではないか? 世界が死んでしまったように感じる。ここは冥界ではなく地上世界だというのに」 瞬の顔をしたハーデスは、声まで 瞬と同じだった。 言葉通りに、響きは空虚だが、声は確かに瞬の声。 これは瞬……なんだろうか? 陰鬱で冷徹な印象しか感じられないが、あの瞳に明るい光が射したら、もっと 俺の瞬の面差しに似るだろうか? 俺の瞬が可愛らしかったのは、顔の造作が整っていたからじゃなかったんだな。 瞬の可愛らしさは、瞬が その身にまとっている優しさや温かさで できていたんだ。 これは、形だけが瞬で、形以外のすべてが瞬とは正反対のものでできている。 美しいことは美しいが、長く見詰めていると生気が失せていく。 ――形だけが瞬? 肉体は瞬なのか? このハーデスというモノは? 「何を おっしゃいます。醜悪な人間共は滅び、地上を汚すものはいなくなりました。世界は美しい闇に覆われ、醜いものを見ることもない。素晴らしい世界ではありませんか。ハーデス様は、その世界を統べる王なのです。すべてはハーデス様の望む通りになりました」 「この世界の ありようを、余が望んでいた?」 「高慢なアテナは、今は悲しみに打ち沈み、ハーデス様の成し遂げたことに、天上の神々は称賛を贈っております」 「神々も、うるさい人間たちが消えてしまったので、退屈しているようだがな」 「これが秩序ある世界というものです」 「……」 ハーデスを、この世界を統べる王と呼びながら、その実 ハーデスを操っているのは パンドラという女の方。――のように見える。 このハーデスは操り人形なのか? 瞬――俺の瞬を、誰かが操っている? 瞬の形をしたハーデスは、パンドラの主張に異議を唱えるつもりはないらしく、そのまま 口をつぐんでしまった。 パンドラを見るのをやめ、遠くを見詰める目で 虚空を見やり、そして。 「氷河……」 瞬の形をした闇色の生き物は、不意打ちのように 俺の名を呟いた。 瞬の形をしたハーデスの唇から生まれた その音を聞いた時、俺の心臓は 跳ね上がった。 俺は、自分が どこにいて、どんな状態で、この不吉な光景を見ているのかも わかっていなかったのに。 俺の心臓は そことは違うどこかにあると考えるしかなかったのに。 いや、それとも、俺の身体は 既に失われてしまったんだろうか。 俺はハーデスとの戦いで死に、今 ここで 瞬の形をしたものを見ている俺は、もしかしたら 肉体を持たない 心だけの存在なのか? 肉体を失ったから、いつも 瞬に出会うたびに感じていた あの浅ましい欲望も 湧き起こってこないのか? あるいは――俺のこの無欲は、あの瞬の形をしたものが 俺の瞬ではないんだろうか。 俺は どこにいるんだ。 どこで、この光景を見ているんだ。 瞬が――瞬が俺の名を呼んでくれたのに、側に行けないなんて、これは どういう拷問だ! |