氷河が浮かれ喜ぶ様を見るのは恥ずかしく、氷河を浮かれ喜ばせるようなことを、彼に告げるつもりはない。
だが 瞬は、ナターシャの不安を完全に払拭するために、『ナターシャのパパとマーマは ずっとナターシャと一緒にいる』の宣言を、1日に1回ペースで繰り返すつもりでいた。
10年も20年も一緒にいた大人たちと違って、ナターシャは まだ幼く、“今更 恥ずかしくて言えない”境地に至れるほど、ナターシャの両親とナターシャは同じ時を積み重ねてはいないのだ。
そう決意した その日から早速、瞬は その決意を実行に移したのである。

「ナターシャちゃんが心配することはないんだよ。僕と氷河は ずっとナターシャちゃんの側にいて、ナターシャちゃんを一人にしたりなんかしないから。僕と氷河はナターシャちゃんを大好きだから」
マーマに そう言われたナターシャは、『ヨカッター』と歓声をあげて喜び、そして 心を安んじてくれるだろう。
瞬は そう思っていた。
そうなることを、ほとんど疑いなく信じていた。
のだが。
『ナターシャのパパとマーマは ずっとナターシャと一緒にいる』という約束手形を手渡されたナターシャの反応は、瞬の予想と 少し違っていた。
少しどころか、大いに違っていた。

ナターシャは、特段 喜んだ様子も見せず(喜んでいないわけでもないようだったが)、なぜ マーマは“今更”そんなことを言い出したのかというように きょとんとした顔を、瞬に向けてきたのだ。
そして、
「ウン。ナターシャ、知ってるヨ。パパがいつも ナターシャに そう言ってるカラ。パパはナターシャに嘘ついたりしないヨネ?」
と、逆に瞬に問うてきた。

「それは――もちろん、そうだけど……」
それは もちろん そうなのだが、ナターシャは そうなることを心配していたのではなかったのか。
悪い子になって パパやマーマに嫌われ、一人ぽっちになることを恐れ、その事態を避けるために、ナターシャは パパの好きなマーマのようになろうとした――のではなかったのだろうか。
パパに絶対の信頼を置いているナターシャの瞳に 迷いの揺らめきはない。
そんなナターシャに困惑して、瞬は その答えを求めるように、氷河のマンションのリビングルームの三人掛けソファに顔を揃えている仲間たちの方に視線を巡らせた。

『ナターシャのパパとマーマは ナターシャが大好きで、ずっと一緒にいる』
その宣言と約束は 当事者以外の証人のいるところで為された方が ナターシャを より安心させるだろうと考えて、瞬は その場に星矢と紫龍にも来てもらっていた(呼びつけていた)。
事の発端は、ナターシャが抱えている(らしい)孤独への恐れを 星矢と紫龍が瞬に報告したことにあったので、星矢と紫龍は その証人となることを(心中はともかく、表面上は)快く承諾し、その場にやってきていた。
ナターシャの発言は、氷河にとっては 特段の問題があるものではなかったらしく、彼は いつも通り 無感情にも見える無表情だったが、星矢と紫龍は 瞬同様、想定外のナターシャの反応に戸惑っているふうである。

“普通”や“常識”の規格外の氷河は除外し、星矢と紫龍の様子を見て、瞬は、自分の当惑が間違って(?)いないことを確認し、改めてナターシャの方に向き直った。
そして、彼女に、
「ナターシャちゃん。じゃあ、どうして、氷河が僕を好きな訳を知ろうとしたの?」
と尋ねる。
瞬に尋ねられたナターシャは、尋ねた瞬の顔を見詰め、次に彼女のパパの顔を見やり、それから 少々 緊張した面持ちで、彼女の事情を語り出した。

「アノネ。パパがマーマのこと、『好き』って言うと、マーマは、ナターシャのいるところで、そんなこと言わないでって、パパに言うでショ。それに、マーマは、パパにとってもキビシイでショ。パパは、『ピーマンを よけたくらいのことで、あんなに怒るなんて、シュンは俺を好きじゃないのかもしれない』って、しょんぼりしてたんダヨ。だから、ナターシャ、マーマがパパを好きな証拠を見付けようと思ったノ。マーマがパパを好きなことをショウメイしてあげれば、パパがアンシンするでショ?」
「……」
「……」
「……」
「……」

その場にいた四人の大人たちは 揃って絶句したが、その絶句の意味するところは、氷河と氷河以外の三人で全く異なっていた。
比較的 似ている氷河以外の三人の絶句も、瞬と瞬以外の二人では微妙に異なっていた。
星矢と紫龍は、自分たちが瞬に ご注進した“ナターシャの不安”が勘違いだったことに慌てたための絶句。
瞬は、勘違いの ご注進の真偽を ろくに確かめもせず、頓珍漢な対応をしたことに慌て、かつ 恥じ入ったための絶句。
氷河は、軽いギャグのつもりで言った『瞬は俺を好きじゃないのかもしれない』のせいで、(また)瞬に叱られるだろうことを予感したための絶句。

ナターシャが案じていたのは、ナターシャ自身ではなく氷河。
ナターシャ自身が孤独の中に放り出されることではなく、(ピーマンを食べずに)マーマに叱られて しょんぼりしているパパの心の方だったのだ。
ナターシャは、大好きなパパを元気にするために、刻苦勉励、粉骨砕身、奮闘努力していたのである。

「パパの好きな たいぷはマーマでショウ? マーマの好きな たいぷは どんななのカナって」
「あー……。つまり、ナターシャは、瞬の好きなタイプを探るために、『マーマって、どんな人?』って、俺たちに訊いてきたのか? ナターシャが瞬みたいになるためじゃなく?」
ナターシャに確認を入れる星矢の声が震える。
答えるナターシャの声は 明瞭だった。

「ナターシャの目標はマーマだけど、デモ、ナターシャがマーマみたいになっても、マーマはパパを好きにはならないヨ?」
何という理路整然。
一部の隙もない完璧な論理。
ナターシャの鉄壁の論理展開に、大人たちは もはや ぐうの音も出なかった。
取り越し苦労の骨折り損を自覚させられたことで、氷河を除く大人たちの疲労感は倍増していた。

子供を一人 育てるということは、アテナの聖闘士たちが総力を挙げて取り組んでも、容易ではない難事業なのだ。
それでも星矢たちが 底なし沼のような その疲労感から何とか立ち直ることができたのは、地上の平和を守るための戦いを続ける中で培われた不屈の闘志のおかげだったかもしれない。
真の原因が把握できれば、それは 容易に解決できる問題だったのだ。

「これって、つまり、氷河に『好きだ』って言われた時、おまえが『僕も』とか何とか答えてやれば済む話だろ。1日に5回くらい、照れずに我慢してさ。おまえも もう思春期の子供じゃないんだし、ここは少し 大人になって」
これで万事解決。一件落着。
――と、星矢は思っていたし、大筋では その通りだったろう。

「1日に5回? 氷河は、1日に2、30回は言ってるよ」
という瞬による、氷河の 『好き』の頻度訂正など、ごく些末なこと。
「へ? でも、ナターシャは1日に5回くらいだって言ってたぞ」
「……だから、ナターシャちゃんのいないところで」
「ナターシャのいないとこって、どこだよ?」
と 真顔で尋ねる星矢の清らか振りも、枝葉末節の事柄に過ぎない。

問題は むしろ、
「そうか。『好き』と言いすぎたのがよくなかったのか。では、これからは、ほどよく『愛している』を混ぜることにしよう」
と、頓珍漢な反省をし、事態を 更に悪化させる改善策を打ち出す氷河と、
「パパ、アッタマ イー! それなら、マーマも大喜びダネ !! 」
と、頭のいいパパに感激するナターシャの上にこそあった。

「この父娘(おやこ)は……」
子育ての道は厳しく険しく、前途は多難である。
マーマに叱られて意気消沈しているパパのために 心を砕き、前向きに その対応に努めることができるほど、ナターシャが優しく強い子に育っていることが、常識ある大人たちの唯一の心の慰めだった。






Fin.






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