ところで、ナターシャの洋服の購入には、決まった手順があった――いつのまにか、手順が決まってしまっていた。
デパートの子供服売り場を巡って、まず ナターシャが自分の好みに合った服を選ぶ。
しかし、ナターシャは、どんなに自分が その服を気に入っていても、氷河に『可愛い』『似合う』と言ってもらえないと、それを購入候補から除外し、次の候補を探し始める。
氷河とナターシャは二人共、それぞれの美意識というものを持っていたので、それが なかなか難しい。
あれこれ物色して、めでたく ナターシャと氷河の好みが一致しても、それで その服の購入が決まるわけではない。
次は、そこに瞬のチェックが入る。

素材、動きやすさ、縫製の質、安全性。
瞬のチェック項目は多く、その検査は厳しい。
購入候補の服を試着したナターシャは、瞬の前で、両腕を上げたり下げたり、後ろを向いたり、しゃがんでみたり、前屈をしたり。
リボンがあれば、それを自分で結べるか、ベルトがあれば、それを自分で締めることができるかどうか、バックルの造りは安全か、ボタンがあれば、自分で その留め外しがスムーズにできるかどうか等々、幾つものテストを受ける。
それらのチェック項目を すべてクリアし、瞬の許可が下りて初めて、その服の購入が決定するのだ。それを、場合によっては数着分。
へたな お受験より難易度の高い洋服選びのルールがあるせいで、ナターシャの服や靴の選択と購入は いつもナターシャ一家の一大イベントだった。
一種のお祭りといっていい。

“お洋服の日”のお祭りを幾度も経験し、ナターシャは 今では、『お洋服は可愛いだけではだめなのだ』ということを、身に染みて知っていた。
両腕を楽に上げ下げできない洋服は、パパと遊ぶ時に 軽快に動くことができず 窮屈な思いをすることになるし、長すぎるスカートは駆けっこがしにくい。
ナターシャは 最近では、瞬のチェックを受ける前に、重要なチェック項目の可否を自分で判断できるようになっていた。

そのナターシャが、ある一着のワンピースドレスをまとったマネキンの前から動かない。
光沢のあるオレンジ色のベルベット地のスカートに、ドレープ状の純白のレースを重ねた、ミディ丈のチュールレーススカート。
レースの重なっている部分が薔薇色に見え、さながら 初夏の お花畑に佇む お姫様のドレスといった風情のワンピースである。
よほど 気に入ったのか、ナターシャは薔薇色のワンピースドレスの前から一歩たりとも動かない。
だが 瞬は、その服の細部のチェックを始めるまでもなく、ナターシャ気に入りのワンピースを却下しなければならなかった。
そのワンピースに ナターシャが心惹かれるのは わかる。
子供服売り場以外では滅多に見掛けない、肩から ふわりと膨らんだパフスリーブ。
それは、まさしく お姫様のドレスの袖。
瞬は、しかし、その短いパフスリーブゆえに、ナターシャを魅了した薔薇色のワンピースドレスの購入を 彼女に断念させなければならなかったのだ。

「腕を出すのはやめた方がいいね」
意識してさりげなく、瞬は 薔薇色のワンピースに見入っているナターシャの肩に手を置いて、告げた。
「ドーシテ?」
瞬が それを気に入っていないことを察したらしいナターシャが、少し切なげに 瞬の顔を見上げてくる。
その瞳を見詰めながら、瞬は、嘘で ナターシャを説得しなければならないことに罪悪感を覚えたのである。
だが、この短い袖のワンピースをナターシャに着せるわけにはいかないのだ。

「ナターシャちゃんの肌は敏感だから、あんまり お陽様の光に当てない方がいいんだよ」
「ソーナノ?」
「うん。その方がいいだろうね」
「肌がビンカンなのって よくないの?」
「そんなことはないよ。でもね」
ナターシャの前にしゃがみ込んで、ナターシャの手を取る。
瞬が そうしたのは、ナターシャの目を、薔薇色のワンピースドレスの上から逸らすためだった。

「ほら。時々、日傘をさして、サングラスをかけて、マスクをして、肩まで届くような長い手袋をしている女の人がいるでしょう?」
「うん」
「あれはね、綺麗でいるための鎧なんだよ」
「ヨロイ? あれは聖衣なの?」
「ちょっと違うけど、似たようなものだね。肌が敏感な人も敏感でない人も、お陽様に当たりすぎると、肌がメラニン色素を作って――んーと、肌の あちこちを刺激して、肌の ところどころを黒くしちゃうの。それで、シミやソバカスができる。顔や胸に茶色い ぽつぽつが いっぱいある人がいるでしょう? 鎧をつけずに お陽様に当たった人たちが あんなふうになっちゃうんだよ。肌が敏感すぎる人の中には 茶色いぽつぽつじゃなく、真っ赤に火傷しちゃう人もいるくらい、お陽様の光っていうのは強いから。そうなるのが嫌な人たちが、鎧で肌を守るんだよ。白い肌でいたいから」

「でも、変な恰好ダヨ。窮屈そうだし、夏は暑いヨ」
「そうだね。ナターシャちゃんにも変な恰好をしてるって思われちゃうしね。でも、そういう人たちは、自分の大好きな人にだけ、綺麗な自分を見てもらえればいいって思ってるんだよ。他の人には、変な恰好をしてるって思われても平気なの。ナターシャちゃんも、氷河に可愛いって言ってもらえるのが、いちばん嬉しいでしょう?」
「……」

もちろん、パパに『可愛い』と言ってもらえることが いちばん嬉しい。
そして、パパに『可愛い』と言ってもらえることが いちばん重要なことである。
しかし、物事は、“いちばん”のものがあれば、それだけで ベストの状況が生まれるわけではない。
いちばん美味しいイチゴのタルト。
そこに 美味しいお茶がついていたら、なお いいではないか。
ナターシャは、瞬の説得の論拠の瑕疵を鋭く 突いてきた。

「パパだけじゃなく、みんなにカワイイって言ってもらえるのがイイヨ! 公園にいる人や お店にいる人が、ナターシャのことカワイイって言ってくれると、パパが喜ぶんダヨ!」
「それはそうなんだけど、でも、そうしてると、シミやソバカスができて、結局――」
本当のことは言いたくない。
言うわけにはいかない。
そして、短い袖のワンピースは、何としても諦めてもらわなければならない。
だが、どうやって。
ナターシャの説得を続けられなくなった瞬に、脇から 氷河が助け舟を出してくれた。

「俺は、瞬のように日焼けしていない肌が好きだ。シミやソバカスなんてものは、ない方がいいに決まっている」
氷河の助け舟は、理屈に拠ったものではなく、感覚と感情に拠ったもの。
そして、それは理屈より大きな力を有していた。
「マーマみたいに?」
パパが好きなものでなければ、それはナターシャにとって価値のないものになる。
ナターシャは、氷河の説得に(?)すぐに負けてしまった。
「……ナターシャ、シミも おソバもイラナイヨ……」
それでも ナターシャがしょんぼりした様子になるのは、薔薇色のドレスに未練があるからか。
瞬は、沈んでしまったナターシャの心を引き立たせるため、急いで代替案を提出した。

「そうだ。袖なしのお姫様のドレスみたいな お洋服を買うことにしようよ。それで、一緒に 刺繍のついた長袖のボレロを買うの。お陽様が照ってる 外を歩く時は ボレロを着て、おうちではボレロなしで過ごせばいい。おうちでは氷河の お姫様。お出掛けの時は上品な お嬢様。このワンピースは 袖が膨らんでるから、重ね着ができないでしょう?」
それでナターシャの望みは叶い、大人たちの都合(不都合)も解消されるのだ。

「ああ、それがいい。家の中なら、肌を痛めることもないからな」
氷河が すぐに瞬の代替案に賛意を示す。
人目のないところでなら――ナターシャを愛している者しかいない場所でなら――ナターシャはナターシャのまま、何を隠す必要もない。
ナターシャのパパとマーマは、ナターシャの腕の縫合痕など 気にならないのだ。
何があっても、あるいは何が欠けていても、ナターシャのパパとマーマにとって、ナターシャは、ただただ可愛い娘、ただただ愛すべき娘だから。

「ウン……」
もともとパパの気に入らない服を買ってもらうつもりのなかったナターシャは、氷河と瞬 二人掛かりの説得に折れるしかなかっただろう。
二人の説得に折れたことを 途轍もなく立派な いい子の振舞いであるかのように、氷河と瞬にかわるがわる頭を撫でられてしまっては、なおさら。
ナターシャは、小さく氷河と瞬に頷いてくれた。
瞬は、いちばんの お気に入りを諦めてくれた いい子のナターシャのために、いつもなら『不必要な装飾が多すぎる』と言って却下するようなデザインも 大目に見ることにして、ナターシャの二番目の お気に入りを探し始めたのである。
袖の長いもの。もしくは 長袖の上着つきのアンサンブル。
瞬は、ナターシャの心が浮き立つような、できるだけ華やかな服をナターシャに薦めた。
――のだが。

瞬のチェックを通るか通らないかは別にして、試着の時には いつも嬉しそうにモデルを務めるナターシャが、今日はやけに大人しい。
二番目のワンピースに似合うリボンとバッグも一緒に買ってやったのだが、ナターシャは、あまり喜んでいるようには見えなかった。
買い物を済ませたあとに入ってカフェで イチゴのタルトを前にしても、ナターシャは いつもの晴れ晴れとした笑顔を、彼女のパパとマーマに見せてくれなかった。

そして、それは、帰宅後、“お洋服の日”恒例のファッションショーを始めてからも同じ。
氷河が いつもの5割増しで『可愛い』『似合う』『お姫様のようだ』と 口を極めて絶賛しても、ナターシャの表情は沈んだまま。
ナターシャは そんなに あの薔薇色のワンピースが欲しかったのかと、瞬はナターシャのための“お洋服の日”に大人の都合を優先させたことを後悔したのである。
あの薔薇色のワンピースの難点は袖だけなのだ。
その点さえクリアできれば、あのワンピースドレスをナターシャが着用することに何の問題もない。

「ナターシャちゃん。やっぱり あのワンピースを買うことにしようか? 袖を長袖にリフォームするか、いっそ 袖を取って 上着を着れるようにすれば、日焼けもせずに済むと思うし」
ナターシャに そう言ってみたのだが、なぜかナターシャは瞬の提案を喜ばず、『いらない』と言って、首を横に振った。






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