どれだけ ふて腐っても、乗り気でなくても、アテナの聖闘士である俺が アテナに逆らえるはずもなく、翌日には 俺はインド洋に浮かぶアンドロメダ島に向かうべく聖域を出立した。 アフリカ大陸までは船、アフリカ大陸を陸路で南下。 東アフリカ沿岸からは、船の難破を装うために海を泳いで、俺は アンドロメダ島に向かったんだ。 どれだけ ふて腐っていても、俺はアテナの聖闘士。 当然 遠泳の100キロ200キロは朝飯前だが、インド洋の海水の生ぬるさには心底から辟易した。 だが、まあ、船の難破を装うというのは、いいアイデアだ。 難破のショックで記憶をなくしたと言えば、島にいる人間がプロテスタントでもカソリックでも、そいつ等は喜んで俺を自分たちの神の信奉者にしようとするだろう。 俺は、身勝手だが非力な人間たちに危害を加えられる可能性がなくなり、身勝手だが非力な人間たちの乱暴狼藉を退けるために聖闘士の力を使う必要も生じない――という算段だ。 俺がアンドロメダ島に上陸したのは早朝で――空も青、海も青、アンドロメダ島は美しい島だった。 それは、とりもなおさず、人間が住むには向いていない島ということでもあるが。 周囲30キロほどの小さな島。 東西に長軸10キロ程度の楕円を描いていて、島の東側の半分が 樹木を抱いている山。 西側半分には、遠浅の浜から続く砂と岩だけの光景が広がっている。 アンドロメダ島は、美しいことは美しいが、砂漠と緑でできた、実に おかしな様子の島だった。 俺が上陸したのは 西側の砂浜の方で、上陸するなり、この島には水があるんだろうかと、俺はまずそれを心配した。 砂浜の向こうに、砂の色でもなく 岩の色でもない緑色を帯びた山が見えたから、降雨はあり、泉の一つ二つはあるのだろうとは思ったが。 俺は 空気中の水を凍らせて飲料水を作ることもできるから、渇きのせいで死ぬことはないが、一般人は そんな器用な真似はできないだろうし。 まあ、余計な心配か。 ともかく、ここは今は無人島ではないんだ。 人が生きていくのに必要最低限のものはあるんだろう。 アテナは、アンドロメダ島は数ヶ月前まで無人島だったと言っていた。 小さな島だし、そんなに大勢の人間がいるはずはなく、当然 大きな町もないだろうとは思っていたが、俺が島に上陸した時、そこには人影の一つも見えなかった。 俺が見渡せる島の西側半分には。 人が住むなら 緑のある方だろうと考えて、俺は 山のある東側に向かって歩き出した。 無論、そこにも町はなかった。 大きな町がないのは予想通りだが、俺が期待していたような小さな集落すらなく――山の麓に 大きな館が一つあるきり。 それが、原始的な掘っ立て小屋ではなく、屋根にヤシの葉を葺いた南国風の草ぶき屋根の家でもなく、古代ギリシャ風の神殿の遺跡でもなく――普通に文明人が生活できるような館だったせいで、俺は大いに困惑した。 当世風――いわゆるルネサンス風の石造りの館。 ローマやフィレンツェの街から、魔法で館を一軒 運んだような――それは 途轍もなく不自然な建物だった。 こんな絶海の孤島に、どうやって こんな大層な館を建てたんだと、俺は唖然とした。 アテナは、この島で 人間業とは思えないことが起こっていると言っていたが、この島に こんな館があることが、既に人間業じゃないと、俺は思ったな。 いったい誰が、どうやって こんな豪勢な館を建てたんだ。 冷静になって考えてみると、この地域、この場所、この気候の島に、緑を抱えた山があることも不自然だ。 この館に住んでいるのが神か魔物だというのでもない限り説明がつかない。 そう思ったから、俺は、とにもかくにも まず第一に、何とか この館に潜り込んで住人の正体を探ることにしようと考えたんだ。 しかし この館は、『ごめんください』と言って入り口の扉を叩いたら、『ようこそ いらっしゃいませ』と 中に招じ入れてもらえる館だろうか。 もし そうなら、それこそが何かの罠のような気もする。 堂々と正面から乗り込むべきか、こそこそ空き巣狙いの真似事をするべきか。 どちらが適切な潜り込み方かと、館の正面の扉の前で 俺が悩んでいたら(空き巣狙いを企む人間のすることじゃないな)、ふいに その扉が開いた。 そして、そこから、一人の少女が駆け出てくる。 少女――といっても、それは中身だけのことで、その人物が身に着けているのは男子の衣装だった。 こんな島でドレスなんか着ていたら、それこそ生活に支障をきたすだろうから、俺は彼女の男装を さして奇異なこととは思わなかったがな。 プロテスタントではなさそうだった。 身に着けている服がイタリア風だったから。 イタリアの貴族か、裕福な商人の家の子弟の服。 怪しい気配は全く感じられなかったが――神でも魔物でもなさそうだったが――並みの人間でもなかった。 彼女を並みの人間と思う奴がいたら、そいつの美意識はどうかしている。 彼女は、確実に、並みの人間ではなかった。 途轍もない美少女だった。 白く なめらかな肌。 やわらかく可憐な曲線で描かれた眉、鼻、頬、唇。 澄んで美しい大きな瞳。 いかにも優しげな眼差し。 華奢で のびやかな四肢。 ほっそりとした体つき。 少女にしては 短く、結い上げられていない髪が気になったが、ローマやフィレンツェの街の中ならともかく この大自然の中で、貴族の奥方のように髪が きっちり結い上げられていたら、それこそ自然に逆らう頑なさを感じることだろう。 自然に流れる やわらかい髪がいいんだ。 こういうところでは。 とにかく、瞳が奇跡のように澄んでいて美しい。 見ただけで、清らかな心の持ち主だということが わかる。 そして、まず間違いなく処女。 この島はエリシオンだったのか――と、俺は8割方 本気で思った。 俺の好みに どんぴしゃ。まさに 理想の美少女。いや、理想以上の美少女だ! ――と、俺が浮かれていられるくらい、俺と彼女の間には距離がなかった。 互いに腕を伸ばし合えば、触れ合うこともできていたかもしれない。 この島に、住居が この館一つしかないのなら、彼女は島の住人の顔をすべて知っているだろう。 当然、俺は彼女にとって見知らぬ男。 彼女は見知らぬ異邦人の出現に驚いて、館の中に戻ろうとした。 もちろん、俺は 素早く引き止めたぞ。 本当は手をのばして掴まえてしまいたいところだったんだが、それで彼女を恐がらせるようなことはしたくなかったから、あえて 言葉だけで。 「逃げないでくれ。昨夜の嵐で船が難破して、この島に流れ着いたんだ」 「嵐?」 彼女は、館の中に逃げ込むのは やめてくれたが、俺のその説明を聞いて、見知らぬ異邦人を いよいよ怪しむことになったらしい。 それはそうだろう。 夕べ、海は静かだったんだから。 が、俺は そんな矛盾――自分が口にした不自然な訴えごときに ひるむ男じゃない。 何といっても、理想以上の美少女。 怪しい男とも、大嘘つきとも思われたくない。 「嵐じゃなかったら、ポセイドンの気まぐれで、船をひっくり返されたんだ」 彼女がキリスト教徒なら、ポセイドンは異教の神だが、イタリア人なら、ルネサンス全盛の今、ギリシャの神々は絵画でも彫刻でも書物でも慣れ親しんだ存在だろう。 その実在は信じていなくても。 信じているはずがないのに――なぜか彼女は、ギリシャの神の名を――実在も? ――すんなり受け入れてくれたんだ。 「それは……お気の毒です。お怪我はありませんか。この島に流れ着いたのは、あなた お一人だけ?」 「他の乗組員は、別の船に拾われた。ポセイドンの気まぐれか、トリトンのいたずらか、俺だけが 別の方向に投げ出されて 拾ってもらえなかったんだ。できれば、しばらく宿を貸してほしい。俺はギリシャのアテネから来た――ギリシャ人ではないが、ヒョウガ――氷河という。君は」 「シュン――瞬といいます」 瞬。瞬ね。 とにかく美少女。俺好みの美少女。 こんな美少女に会えるなんて、アテナに感謝しよう。 彼女は天上も天下も問わず、この大宇宙で最高の女神だ。 アテナに栄光あれ! 「宿をお貸したいのはやまやまなんですが、兄が許してくれるかどうか……」 兄? 兄がいるのか? 彼女の兄が この館の主なら、両親はいないということだろうか。 「いずれ俺を探して、救助の船が来るはず。故国と連絡がついたら、相応の礼もする」 「そんな ご配慮は不要です。災難に会われた方を助けるのは当然のことです。でも、いろいろ事情があって、兄は今、ひどく猜疑心が強くなっていて――いえ、用心深くなっていて、見知らぬ人を館に入れることはおろか、この島に他人がいることすら、快く思わないでしょう……」 無人島だったアンドロメダ島が無人島でなくなったのは、もちろん、人間が渡って 住み始めたからだろう。 俺は てっきり、それを カソリックとプロテスタントの陣取り合戦の一端なんだと思っていたんだが、そうではなかったんだろうか。 猜疑心の強い兄のせいで、苦境にある人間を助けたいが 助けるわけにもいかず――瞬は困っているようだった。 困って――兄の目に見付かることを避けるためか、ふいに俺の手を取って、 「こちらに」 俺を人気のない(この島は どこにも人気がなかったが)館の裏に連れ込んで――もとい、導いてくれた。 |