冷たくて 寂しくて 悲しい 氷のお城。 それは、お城の中に 生きている人が一人もいなかったからです。 1年前の戴冠式の日までは、着飾った大勢の紳士や貴婦人や近衛兵や召使いたちがいたのだろう大きなお城に、今は 動くものは何一つありませんでした。 氷の床を駆け抜けていく乾いた雪の他には。 本当に、雪以外に動くものは 何一つなかったのです。 王城の大広間で 瞬と氷河を出迎えたものは、氷の像のように冷たくなった女王様だけでした。 「女王様……?」 女王様は、とても 美しい方でした。 彼女は、優しく両手を差しのべて、瞬と氷河に向かって微笑んでいます。 とても優しい、愛だけに縁どられた微笑み。 この人が魔女なんかであるはずがないと、凍りついた彼女の微笑みを見た瞬間に、瞬は確信しました。 凍りついているのに――女王様の微笑みは、とても――本当に温かなものだったのです。 この人が、ヒュペルボレイオスの民を苦しめる冷酷な魔女であるはずがありませんでした。 「これは いったい、どういうこと……? 女王様がこの国を凍りつかせたというのは嘘なの? 女王様までが凍りついているなんて……!」 瞬の当惑――むしろ混乱――は、当然のものだったでしょう。 瞬は、ヒュペルボレイオスの国を雪と氷で閉ざしたのは女王様だと聞いていました。 だからこそ、女王様にお願いして、ヒュペルボレイオスを覆っている雪と氷を取り除いてもらおうと思っていたのです。 なのに 女王様が こんなふうに凍りついているということは――女王様を凍りつかせた別の誰かがいるということ。 その誰かを見付け出し、その誰かに頼まなければ、ヒュペルボレイオスを覆っている雪と氷は消えないということなのです。 けれど、その誰かをどうやって探し出せばいいのか――。 瞬には、その方法がわかりませんでした。 「どうしたらいいの。僕は、女王様に頼めば、女王様にヒュペルボレイオスの国を救ってもらえると思っていたのに……」 一人で立っていることができなくなって、瞬は、優しく微笑む女王様の前で ぺたりと床に座り込んでしまいました。 「誰が女王様に こんなひどいことをしたの……。お気の毒な女王様。きっと女王様は何も悪いことをしてないのに、みんなは女王様が この国を雪と氷で閉ざしてしまったんだと思ってる……」 それは、女王様だけでなくも女王様を憎んでいる国の民にとっても、悲しく不幸なことです。 それは あまりに――あまりに、誰にとっても悲しすぎることではありませんか。 だとしたら、ここで呆然としていることはできない。 瞬は、すべての人を その悲しみから解き放ってやらなければなりません。 それが、この城に辿り着き、悲しい誤解を受けている女王様に出会ってしまった自分の務めなのだと、瞬は思ったのです。 「ヒュペルボレイオスの国を凍りつかせて、それを女王様のせいにしている人が 別にいるの……」 「だとしたら、どうする?」 氷河が奇妙なことを、瞬に問うてきます。 『どうする?』というのは、どういうことでしょう。 女王様の不運を知ってしまった人間がすべきことなど、決まっているではありませんか。 「その人を見付け出して、この国と女王様を助けてくださいって、お願いするんだよ」 「無理だと思うぞ。こんなふうに、すべてを凍りつかせる男。心も氷のように冷たい悪魔に決まっている。世界のすべてを呪い、憎んでいるに違いない」 そう告げる氷河の声は、それこそ 氷のように冷ややかでした。 女王様を凍りつかせた人間を心の底から軽蔑しているように、そして、すべてを諦め 絶望しているように冷たい声。 瞬は、氷河の言葉より、その声の冷たい響きにこそ、驚いてしまったのです。 「そんなこと……。たとえ そうだったとしても、悪魔にも心はあるでしょう? 心を込めてお願いすれば、きっと――」 氷河が どうして こんな冷たい声で、こんな突き放したようなことを言うのでしょう? 氷河は優しい人です。 無謀な冒険に挑む瞬の身を案じて、この城まで一緒に来てくれました。 氷河がいてくれなかったら、瞬はきっと この城に辿り着く前に、どこかで凍りついて命を落としてしまっていたでしょう。 氷河が『危険だから、やめろ』と言いながら、我が身の危険を顧みず、瞬の無謀に付き合って このお城まで来てくれたのは、万一の時、瞬を助けようと考えてのことだったでしょう。 そんな氷河が、女王様のお気の毒な姿を見たら、女王様を救ってやりたいと思うに決まっている――と、瞬は思っていたのに。 氷河の声が冷ややかな訳は、まもなく わかりました。 その訳がわかっても、瞬はすぐには信じることができなかったのですけれど。 氷河は、 「俺だ」 と言ったのです。 「え?」 「俺が、女王を凍らせた悪魔だ」 と。 瞬時、寒さも驚きも悲しい気持ちも忘れて、瞬は ぽかんとしてしまいました。 そんなことがあるはずありません。 それは絶対にあり得ないことでした。 「氷河が そんなことするはずがないよ。氷河は優しくて、死にかけていた僕を助けてくれたよ」 戸惑いながら訴えた瞬に、氷河が首を横に振ります。 そして、氷河は なおも言い募るのです。 「俺は優しくなどない。俺は残酷で卑怯な悪魔だ」 と。 女王様を凍りつかせた人間を心の底から軽蔑しているように、そして、すべてを諦め 絶望しているように冷たい声で。 氷河が軽蔑しているのは 氷河自身なのでしょう。 氷河が絶望しているのも、氷河自身のことなのでしょう。 けれど、瞬にとって氷河は命の恩人。 世界で いちばん優しくて強くい人。 氷河の軽蔑も絶望も、瞬には受け入れ難いものでした。 「どうして そんなことを言うの。氷河は優しいよ。氷河は 僕を助けてくれた。氷河が残酷で卑怯だなんて、そんなことあるはずない!」 絶対に、そんなことがあるはずがない。 瞬は、氷河のために、氷河と戦うことも辞さない覚悟で、きっぱりと言いました。 瞬の剣幕に気圧されたように、氷河が瞳を見開きます。 夏の青い空の色の瞳。 氷河は すぐに 瞼を伏せて、その青空を隠してしまいましたけれどね。 そして、ぽつりと、彼は呟くように言ったのです。 「すべてを凍らせる力を持っているのは、マーマではなく俺なんだ」 と。 「え……」 女王様をマーマと呼ぶということは、氷河が王子様――氷河がヒュペルボレイオスの国王様ということなのでしょうか。 ヒュペルボレイオスの王様は、戴冠式以降 ずっと行方知れずになっていると聞いていたのに。 「氷河が国王様? でも、だったら、なおさら 氷河がそんなことするはずがないよ」 氷河は女王様を憎んでいるようには見えません。 深く愛しているように見えます。 実際、愛しているのでしょう。 だから、氷河の声は冷ややかなのです。 悲しいから――悲しいほど冷ややかなのでしょう。 「赤ん坊の頃には、こんな力はなかった。だが、いつのまにか、雪を降らせることができるようになり、触れるものを凍りつかせる力が備わり、その力は どんどん大きく強くなって、やがて 自分の意思では制御が難しくなっていった。注意深く過ごしていたんだ。不用意に 人や物を凍りつかせてしまわないように。冷静でいれば――怒りすぎたり、悲しみすぎたり、喜びすぎたり――激しさえしなければ、力を抑えることはできた。ただ、いつも冷静でいるために、いつも緊張していなければならなくて――」 「氷河……」 「こんな力を持った俺が国王になっていいのか不安で、いつか 俺の力が この国を壊してしまうんじゃないかと不安で、戴冠式の日、力の制御ができなくなって、王冠を凍らせてしまった。それを不吉な魔法の力のせいだと言い出した奴がいて、咄嗟に マーマ――女王は、俺の力を隠すために、その場にいた者たちに 自分が魔女だと言い放ってしまったんだ。俺を庇うために――」 「あ……」 それで、おそらく氷河は、お母様を窮地に追いやってしまった自分自身に驚き、戸惑い、腹を立て、冷静でいられなくなってしまったのでしょう。 そして、力を抑えることができなくなり、力を爆発させてしまった――。 女王様は、そんな氷河を落ち着かせようとして、もしかしたら 『あなたは悪くない』と慰めようとして、もしかしたら『私が あなたを守るから』と力付けようとして、微笑み、氷河に手を差しのべたのかもしれません。 なのに 氷河の力は、そんな女王様までを凍りつかせてしまったのです。 氷河の感情の嵐は、そのせいで ますます激しく乱れることになり、お城中を、お城の建っていた丘を、ヒュペルボレイオスの都を凍りつかせてしまったのでしょう。 瞬には、氷河を責めることはできませんでした。 「すぐに王城の中にある神託所に行き、凍ってしまった女王を元に戻すにはどうすればいいのか、神託を仰いだんだ」 「神託は下ったの……?」 「神託は下った。『凍りついた女王を元に戻すのは、真実の愛だけ』という、実に有難く、実に ありふれた神託がな」 吐き出すように、氷河は言いました。 ありふれた神託は、それが普遍的なものだからでしょう。 なぜ 氷河の口調が そんなふうに投げ遣りなものになるのか――。 氷河の気持ちがわからず、瞬きを繰り返す瞬の前で、氷河の声の軽蔑の響き、自嘲の響きは、いよいよ濃いものになっていきました。 「だが、俺がマーマを愛すれば愛するほど、俺の力は大きくなり、マーマは更に冷たくなるだけ。永遠にマーマだけを愛すると誓っても、心から愛していると訴えても、マーマは元に戻らない。マーマを温めようとして燃やした暖炉の火までが凍りつく始末だ」 「あ……」 「この世界に、俺以上にマーマを愛している者はいないぞ。なのに、俺はマーマを救えないんだ。俺の愛は真実のものではないと言うのか? ならば、この地上に真実の愛などない。どこにもない。おそらく、この世界が滅びることが 神の望みなんだ……!」 「そんな……氷河……」 「マーマを救うことができないのに、世界を救うなんて無理だ。世界など滅んでも構わない。マーマが生き返らないのなら……!」 氷河の絶望の呻きが、瞬の瞳に涙を運んできます。 ヒュペルボレイオスで最も冷たく寒いはずの この王城で、けれど、瞬の涙は凍りつきませんでした。 それくらい、瞬の涙は温かい――熱いものだったのでしょう。 悲しい涙が 温かいなんて、とても変なことですけれど、きっと そうだったのでしょう。 |