事の発端は1ヶ月前。 配偶者を亡くした老婦人が栄養失調で倒れた日まで溯るらしい。 シャネルの女性は――彼女は頑として名を名乗らなかった――幼い頃 両親が離婚し、親権は母親のものになった(引き受ける羽目になった)ものの、両親共に娘との同居と養育を拒否。 結局 母方の祖父母の家に引き取られ、実母を『ろくでなしの男に引っ掛かった馬鹿娘』と なじる祖父母に育てられたらしい。 「その件に異論はない。私だって そう思うけど、人に言われると腹が立つのよ」 と、彼女は言った。 「あの日は 滅茶苦茶 むしゃくしゃしてたのよ。ろくでなし親父が事故で死んだって、親父の知り合いだって男から連絡が来たの。遺産でも残してくれたのかって期待して 指定された場所に行ったら、その逆。借金をしてて、それを返せって。20年以上 会ってない父親なんて、遺産を残してくれたんじゃなきゃ、赤の他人でしょ。私は、向かっ腹を立てながら、相続放棄の申請書ってのの書式を、そこの図書館に調べに来たわけ。そしたら、どっかの年寄りが具合い悪そうにしてて、綺麗な家族が助けてやってて、綺麗な服を着た女の子が『マーマは光が丘病院のお医者さんダヨー』なーんて、得意げに言うじゃない」 「得意げって何よ! あんた、捻くれすぎ。ナターシャちゃんは、具合いの悪い おばあさんを安心させようとして、そう言ったんでしょ。何よ。それで、瞬先生の病院に嫌がらせの投書したの!」 「吉乃さん」 まさか桜餅アイスクリームの恨みゆえ――というのではないだろうが、吉乃の難詰の声は大きく険しい。 衣類のシミ抜きサービスをしてくれるホテルに移動したのは正解だったと、瞬は思ったのである。 大型連休前のオフシーズン。 ファミリーパーティ用の個室を予約なしで借りることができた。 シャネル女史は、テーブルの上の アフタヌーンティーのお茶やティーフーズに手を伸ばすほど図太い神経は持ち合わせていないらしく、彼女の前に置かれたお茶は冷えかかっている。 「私と違って、いい家の子なんだろうなーって思った。経済的にも恵まれてて、綺麗な家族、幸福な家庭――無駄に 決まりすぎてるパパと綺麗なママに愛されて育って、幸せそうで。私は、ろくでなしの両親と 愚痴と嫌味ばっかりの爺婆に ずっと邪魔者扱いされてたのに。不公平でしょ。私だって、幸せな家庭で育てられてたら、あの子みたいに素直な いい子に育ってたはずなのよ。父親の死を知らされて、悲しむより先に遺産を期待しちゃうなんて、冷たくて浅ましくてみじめな人間なんかにはならなかったはず」 「へえ。自分が浅ましくて みじめな女だってことは わかってるんだ」 吉乃の声と言葉は、相変わらず険しい。 ナターシャの身の上を知っている吉乃としては、シャネル女史に同情する気にはなれなかったのだろう。 吉乃自身、実の両親の顔すら知らないのだ。 「それから公園で見掛けるたび、運命の不公平に腹が立って仕方がなかった。おんなじ人間なのに、なんで あの子ばっかり、あんなに恵まれてて、あんなに幸せそうなのかって。私は、不公平を是正しようとしただけよ。ちょっと嫌がらせするくらい、いいでしょ!」 「ちょっと……?」 それで、ナターシャが大怪我をしていたら、彼女は どうするつもりだったのか。 彼女は自分の不遇に酔いしれて、正常な判断力を失っているようだった。 故意の暴行で障害の結果が発生した場合、彼女は故意犯として傷害罪が適用され、立派な前科者になるというのに。 「ナターシャちゃんが愛されるのは当然のことよ。ナターシャちゃんは、あんなに小さいのに、私を守るために、自分が犠牲になろうとしたことだってあるんだから!」 吉乃の怒りは 治まる気配を見せない。 吉乃にしてみれば、シャネル女史は ただの甘ったれなのだ。 瞬も、吉乃の その考えを厳しすぎると否定する気にはなれなかった。 ナターシャが 吉乃を危険から遠ざけようとした時、吉乃自身も ナターシャと同じことをした。 その場から逃げれば吉乃自身は安全だったのに、彼女もナターシャを守ろうとした。 瞬と氷河も、互いに庇い庇われ、守り守られて、今まで生き延びてきた。 今 シャネル女史の前にいる人間たちは皆、愛されるべくして愛されている人間ばかりなのだ。 「不幸自慢で人に勝とうとしない方がいいですよ。僕たちは全員、僕も吉乃さんも 実の両親の顔を知りません。氷河は、7歳の時に、たった一人の肉親であるお母さんを 目の前で亡くしています。僕たちは誰も、特段 恵まれた環境で育ったわけではありませんよ」 “僕たち”の中にはナターシャも含まれていることを、ナターシャには気取られぬよう、視線で シャネル女史に示す。 さすがに それには驚いたようで、シャネル女史は 一瞬 はっとしたように瞳を大きく見開いた。 不幸自慢で負けることほど、人を いたたまれない気持ちにすることはない。 “僕たち”の目を見ることを恐れるように、シャネル女史は その視線を脇に逸らした。 「それでも、あなたに羨んでもらえるほど幸せな家庭を築くことができているんですから、あなたもきっと――」 言いかけた言葉を途中で途切らせたのは 自分の意思だったのか、それとも、 「その女に 甘いことを言わない方がいい――あまり優しくしない方がいい」 という氷河の忠告のせいだったのか。 あるいは、 「マーマ。あんまり優しくすると、その お姉ちゃん、泣いちゃうヨ」 という、ナターシャの大人びた洞察力のせいだったのか。 「うん……」 二人の忠告は おそらく適切だった。 瞬が それ以上 彼女の幸福についての安請け合いをしなかったからこそ、彼女は 泣かずに、最後の意地を張り通すことができたのだ。 「優しくなんか、されて たまるもんですかっ!」 椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がったシャネル女史が、威勢のいい啖呵を切って、部屋を出ていく。 最後まで『ごめんなさい』の一言も言わずに済ませることができたのは、この場合は幸いなことのような気がする。 ナターシャのパパとマーマが彼女の実の両親でないことを、わざわざナターシャに教えたり確かめようとしたりしないところを見ると、彼女は真正の馬鹿ではないのだ。 最低限、人として してはならないことは わかっている。 そんな人に くどくどしい説教は逆効果。 彼女は、現在の己れを顧み、自分で考え、自分の生き方を決めるだろう。 そうであることを、期待するしかない。 「平和を乱す敵より こたえるね、ああいう人は。戦いようがなくて……。どんなに不遇でも不運でも、前向きな人には力を貸してあげられるけど、ああいう人は――」 「あの女が アテナの聖闘士の敵の方がよかったのか? 敵に足を引っ掛けて倒そうとする剣闘士や冥闘士」 「そんな敵、どう戦っても勝てる気がしないよ」 だから、手強いのだ。 非力な――アテナの聖闘士に比べれば はるかに非力な――敵というものは、力だけでは どうにもできない。 すべてが“力”で片付いてしまう世界が 幸福な世界になり得ないことは わかっているのだが、その事実のせいで感じるジレンマや無力感は いかんともし難い。 それは、強くなることだけを願っていた幼い頃には抱いたことのない焦燥だった。 強くなればなるほど、瞬の中では、『力だけでは、この世界は どうにもならない』という気持ちが強くなっていくのだ。 「理論でもなく、力でもなく――いったい何なら、ああいう人たちで あふれている この世界を幸せな世界にすることができるんだろうね……」 小さく呟いて、瞬は 力のない笑みを浮かべた。 その呟きを呟いた時、瞬は“答え”を期待していなかったのである。 その答えを、誰も知らないのだと思い込んでいた。 ――のだが。 瞬が その呟きを呟き終えた途端、その場にいた瞬以外の人間が一斉に、何か珍奇なものを見るような目を瞬に向けてきたのである。 「瞬。おまえは何を言っているんだ……?」 「瞬先生、健忘症ですか」 「あ……え……?」 氷河と吉乃の疑念に 瞬が反応らしい反応を示す前に、ナターシャが瞬の知りたいことを瞬に教えてくれた。 「愛ダヨ、マーマ。アイ」 「そうそう。ナターシャちゃんの言う通りです」 「他に何があるというんだ」 三人は自信満々。 彼等の瞳に 絶望や迷いの色はない。 そんなものは、かけらほどもなかった。 「あ……」 そんなナターシャたちを見て、瞬は嬉しくなってしまったのである。 同時に、そんな 考えるまでもないことを失念していた自分に、瞬は心の底から呆れた。 本当に――他に何があるというのだろう。 それは、ナターシャのように小さな子供ですら知っていることだというのに。 「そうだね。僕、何を寝ぼけてたんだろ」 不幸な人を 幸せな人にし、不幸な世界を幸せな世界にするもの。 それは、愛に決まっている。 それは もちろん、愛に決まっていた。 Fin.
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