謎の老人が どこかに姿を消してから、期間限定屋台村は、連休の最終日を行楽して過ごしたことにしたいらしい人間たちで ごった返すことになった。
シュラは、作るそばから売れていく焼きそばを 必死に焼き続け、耐熱ポリスチレンのケースに入れ、客に渡し、代金を受け取り、また焼きそば作りに戻る。

「イラッシャーイ!」
「焼きそば、おいしいヨー!」
「ドーモ、アリガトー!」
接客は ほとんどナターシャの仕事だったが、ナターシャは 全く疲れを感じなかった。
なにしろ、次から次に やって来る客たちが老若男女を問わず、
「可愛い お嬢ちゃん」
「お手伝い、偉いね。いい子だね」
と、必ずナターシャに声を掛けてくれるのだ。
『カワイイ』と『いい子』は、ナターシャの活力源。
その活力源が雨あられとナターシャの上に降ってくる。
それが嬉しくて、ナターシャは疲れている暇もなかったのである。

騒ぎが起こったのは、夕方の6時頃。
大勢の人の波の中に 氷河と瞬の気配を感じたナターシャが、二人の姿を探すために、シュラから目を離した時だった。

「はあ? なに言ってんの? 金なら、さっき払ったろ。さっさと、焼きそば よこせよ!」
「俺が商品を渡す前に、代金を受け取るはずがない」
「えーっ、そうやって二重に金を取るつもり? それって、詐欺じゃねー?」
突然 湧き起こった 男性の声にしては甲高い大声に驚いたナターシャが声のした方に視線を巡らせると、そこには 生徒学生なのか社会人なのかの判別が難しい金髪(紛い物の金髪)の男がいて、金色でない眉を吊り上げ、喧嘩腰でシュラと対峙していた。
どうやら、彼が代金を支払う素振りを見せないので、シュラが焼きそばの入った容器を客に手渡すのを渋り、悶着が起きてしまったらしい。

「シュラー。ドーシタノー?」
屋台の中ではなく外で接客をしていたナターシャが シュラに尋ねると、彼は、鉄板の向こうから、表情を変えずに 不思議そうに、
「その男が、焼きそばの代金を払っていないのに 払ったと主張するんだ」
と答えてきた。
シュラの態度に 動じている気配が感じられないことが、偽金髪男の気に障ったらしい。
「俺は払ったっつったろ! 早く、その焼きそば よこせよ!」
彼の甲高い声は、そろそろ裏返り始めている。

タイミング悪く、ちょうど ナターシャがシュラから目を離していた時。
ナターシャは、偽金髪男が 代金を払ったと証言することも、払っていないと証言することもできなかった。
代金を もらっていないのに 焼きそばを渡したら、偽金髪男が悪者になるし、代金をもらったのに 焼きそばを渡さなかったら、シュラが悪者になる。
シュラは、この連休バイトで 焼きそば作りの技は天才的といっていい域にまで熟練していたが、接客は壊滅的に下手なので、ここは接客担当のナターシャが治めなければならないのだが、ナターシャは 肝心の代金授受の場面を見ていない。

焼きそばを作り、容器に入れ、代金を受け取り、品を渡す。
シュラは、その一連の作業を 機械的に正確に行なっていたので、シュラが代金を受け取っていないと言うのなら、それは事実だろうと ナターシャは思った。
だが、証拠がないのだ。
証拠のないことで、悪者を作るわけにはいかない。
シュラの屋台には、トラブルに巻き込まれることを恐れて 客が寄ってこなくなり、代わりに野次馬が遠巻きに 輪を作り始めていた。
ナターシャは、屋台と偽金髪男の間で 困ってしまったのである。

「パパとマーマの名にかけて、ナターシャ、どうすればいいか わかんないヨ……」
パパとマーマの名にかけて、ナターシャが途方に暮れた声を洩らした時、思いがけないところから、救いの手(?)が差しのべられてきた。
「君。確かに代金を渡したのかい?」
そう言いながら、途方に暮れているナターシャを手招いたのは、午前中 ビールの気が抜けるのを待っていた、あの白髪の老人だった。

「ナターシャちゃん、もう少し 右によって。そこは 鉄板のすぐ脇で危ないから」
「ビールのおじいちゃん!」
ナターシャは、シュラよりは頼りになりそうな大人の登場に安堵して、老人の側に駆け寄ろうとしたのだが、彼は そうすることを許さず、ナターシャに安全な場所に留まるよう、手で示した。
ナターシャには100歳にも見えていた白髪の老人が、急に50歳も若返ったような気がする。
ナターシャは老人の指示に従って、彼が立っているよう示した場所に留まったのである。

「なんだよ、爺さん。この詐欺屋台の身内か? 払ったつったら、払ったんだよ! 客の言うこと、信用しねーのかよ?」
偽金髪の男が やたらと肩を怒らせているのは、どうやら彼女連れだから、らしい。
黒いセミロングの20歳前後の女性が、彼の後ろで、野次馬たちの視線を気にしながら おろおろしていた。
老人が、威勢のいい偽金髪男に、人好きのする あの笑顔を向ける。

「君の言うことを信じないなんて、とんでもない。私は、君が代金を支払ったと信じているよ。信じているから、確認したいのだ。君は確かに そこの青年に 焼きそばの代金400円を払ったんだね?」
「さっきから何回 同じことを言わせんだよ! 間違いなく、払いました!」
怒りのためか、衆目の的になっていることに緊張しているのか、偽金髪男の声は ほとんどファルセット。
老人は、相変わらず にこにこしている。

「どういう払い方をしたんだね? 400円きっちり? 500円玉を渡して、100円の釣りを受け取った? 1000円札を渡して、600円の釣り? それとも、5000円や10000円札で払ったのかね? 払ったのなら、憶えているだろう?」
「たりめーだ。1000円札を渡して、600円の釣り。そこまでしたのに、受け取ってねーって言う この男が せこい詐欺師なんだよ!」
「まあまあ。それで、彼は釣りをどんなふうに渡してきたんだい? 500円玉と100円玉? 100円玉を6個? 50円玉を12個?」
「500円玉と100円玉に決まってるだろ」
「随分 はっきり憶えてるんだね」
「払ったんだから、たりめーだろ。きっちり確かめたよ!」
「それはそうだ。それで君は、その やりとりに満足したのかね?」
「ああ。あとは、そいつが俺に焼きそばを渡しさえすれば、どんなに不味くても、俺も文句は言わなかったんだよ」
「なんと寛大な」

老人は、偽金髪男を褒めてから、なぜかナターシャに向かって意味ありげな笑顔を投げた。
それから、彼は ふいに偽金髪男への声を険しいものへと変化させたのである。
「しかし、それは おかしい。ここの焼きそばの値段は350円なんだよ。きっちり確かめたなら、なぜ 釣りが足りないと文句を言わなかったんだ?」
「350円? 400円だろ。あんた、さっき、そう言ったじゃん」
「350円なんだよ。ナターシャちゃん、ちょっと脇にどいてくれるかな? 焼きそばの値段の札を、この お兄ちゃんに見せてあげて」
「ウン……」

老人がナターシャに立っているように指示したのは、ちょうど『焼きそば 350円!』と記されたポップ体の値札の前だった。
ナターシャが値札の前から 脇にどくと、更に もう一枚、『他のどの店より安い!』のポップが現われる。
老人は、最初から、シュラの屋台の焼きそばの値段を隠すために、ナターシャに そこに立つよう指示したのだったらしい。

「ちゃんと代金を払い、釣り銭まで受け取ったにしては、随分と記憶が あやふやのようだが」
「お……俺は、いちいち釣り銭なんか確かめるような せこい男じゃないんだよ!」
「先ほどは、しっかり確認したと言っていたが? 君の記憶と証言には、色々と矛盾があるようだ」
「そ……そーゆーのは、よくあることだろ」
「そう。よくあることだ。だが、だから、君の言葉は信用できない」
「それが! それが、俺が焼きそば代を払ってないってことの証拠になるのかよ !? 」

おそらく、その時、この騒ぎの顛末を見届けようとしていた野次馬たちは全員、偽金髪男が無銭飲食を企んでいたのだと確信していた。
とはいえ、確かに 彼が主張するように、それは心証だけのことで、物的証拠は何もない。
老人は、しかし、取り乱した様子も見せず、にこにこしたまま、偽金髪男を諭すように言葉を継いだ。

「君の言う通りだ。ところで、最近は、この手のイベントから反社会的勢力を排除するために 監視カメラを設置するのが慣例になっていてね。ここの屋台村にも、幾つもの監視カメラが設置されているんだ。全屋台が映るよう、超広角レンズを搭載したカメラが。無論、この屋台も映っている。それを確かめてみるかね?」
「へ……」
老人の言葉に、偽金髪男の顔が強張る。
監視カメラの映像は、もちろん立派な物的証拠になる。

「勘違いだったと認めて 代金を払うか、焼きそばを諦めた方がいいよ。こんなことで前科者になったら、恋人が悲しむ」
老人が そう言って視線を投げた場所に、偽金髪男の彼女はいた――逃げずに、まだ そこにいた。
彼女は、偽金髪男の腕を掴み、
「なに、勘違いしてるの! 私が、ここの焼きそばを食べたいって言ったのは、ここの 焼きそばが他の店より50円 安かったから! それだけ!」
「50円 安かったから、それだけ――って、おまえ、さっき、こいつがイケメンだから、この屋台で買おうって言ったじゃないか! だから 俺は、こいつを食い逃げされる間抜けにしてやろうと――」
どうやら そういうことだったらしい。
偽金髪男は、かなり軽率ではあったが、少なくとも悪質な無銭飲食常習犯ではなかったようだった。

「ばか! 安いから この店にしようって言ったら、あんた、変な見栄を張ろうとするでしょ!」
「う……」
それが図星を衝いていたらしく、偽金髪男が きまりの悪い顔になる。
逃げ出すこともできず、その場に突っ立っている偽金髪男と その彼女が動けるようになったのは、その場に 争い事の嫌いなバルゴの黄金聖闘士が登場したからだった。

「優しい上に しっかり者の恋人がいて よかったですね。シュラさん、お二人の前途を祝して、特別大盛りをサービスしてあげてください。もちろん、お代は いただいて」
瞬が登場した途端、周辺の空気は一変した。
空気が変わったというより、その場にいた野次馬たちの目と関心が 一斉に、瞬と その同伴者に移ったと言った方が正確だったろう。






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