いつまでも平和で穏やかで幸せな日々が続くと思われていた氷河たちの家に 異変が起きたのは、瞬が氷河村にやってきて14年目の春。
その異変は、まず テッサリアの国の一大事として始まった。
テッサリアの国の王が亡くなり、若い新王が即位したのである。

それは 国にとっては大きな出来事なのだろうが、テッサリアの片隅にある小さな村の住人である氷河たちには関わりのないこと。
国王崩御、新王即位の知らせが村に伝わってきても、氷河たちには それは 遠い世界での出来事でしかなかった。

テッサリアの国の前王は、堅実を旨とし、あらゆる分野で 守りに徹した王で、極力 国内に災厄の種を持ち込まないことを心掛けた政治を行なっていた(らしい)。
そのため、テッサリアは、よく言えば平和、悪く言えば 停滞している国だった。
その前王が亡くなり、王の息子が新王として即位。
意欲的なのか、野心的なのか、新国王が即位して最初にしたことは人探しだった。

無論、王が変わるたび、新王が新しい家臣を登用するのは、テッサリアに限らず、どこの国でも よくあることである。
旧臣が幅を利かせている宮廷では、新王が 彼の目指す新しい政治にスムーズに移行することができない。
だから、旧臣への対抗勢力として、新王が若い家臣を宮廷に入れるのは、代替わりのあった国ではよくあること。
だが、テッサリアの新王が国中を巻き込んで始めた人探しは、他国で よく行われる有能な人材登用のためのそれとは、様相が大きく異なっていた。
新王は、“14、5歳の少年”という極めて狭い範囲内で、その人探しを始めたのだ。

新王に任命された人探しの役人は、国内の村々に出向き、まず 村にいる14か15の少年を全員 集めるよう、集落の長に命じる。
役人は、集められた少年たちの顔と出自を確かめ、次々に ふるい落としていく。
テッサリア新王の人材探しは、そんなふうに行なわれているらしい。

新王が探しているのは、有能で有望な家臣候補ではなく 美しい寵童なのではないかと、巷間で囁かれるようになった頃、新王の人探しの役人一行が 氷河たちの村にやってきた。
どうやら彼等は テッサリアの都からアテナイに流れる川に沿って、未来の重臣(あるいは、王の寵童)探しをしているようだった。

氷河たちの村には、14、5歳の男子は10人といない。
王の命を受けてやってきた役人は、村の広場に集まっている少年たちを一瞥し、2、3の形式的な質問を投げただけで、あっという間に審査を終えた(らしい)。
そして、脇に控えていた村長に、
「14、5歳の男子は、これで全部か? この調査に洩れがあったことがあとでわかると、厳しい罰が与えられるぞ」
と念押しをしたのだそうだった。

村長は慌てて、葦舟で この村に流れ着いた少年が一人、この招集に応じていないことを役人に報告した。
数日前から 氷河の母が 病に臥せっていて、瞬はずっと その看病についていたのである。
村長が言及した“葦舟で流れ着いた子”という言葉に、なぜか突然 色めき立ち、役人は わざわざ氷河の家にまでやってきた。

王の権威権力というのが どれほどのものなのか、氷河や瞬には わからなかったが、その役人は 病人が臥している寝室にまで 家人の許可も得ずに入り込み、病人の枕元で必死に彼女の熱を下げるべく努めている瞬を見るなり、
「何も訊かなくてもわかる」
とだけ言って、そのまま部下を引き連れ、やたらと せかせかした足取りで 氷河の家から退散していった。

いったい何が“わかった”のか、遠慮も礼儀も知らない役人に 尋ねる余裕は(時間的にも、気持ちの上でも)瞬にはなかったのである。
それは 氷河も同様だった。
もともと丈夫な方ではなかったのだが、瞬がやってきてからは ほとんど体調を崩すことのなかったマーマの突然の発熱。
しかも、命に関わるような高熱。
突然、死病の神が彼女の存在を思い出したかのような事態に、瞬と氷河は少なからず混乱し、マーマの看病と快癒以外のことには、気がまわらなくなっていたのだ。

だから。
礼儀知らずの役人の来訪の2日後、テッサリア王の勅使だという壮年の男が 数十頭の馬を連ねて氷河と瞬の家にやってきて、金だの宝石だの高価な衣装だの、およそ病人の病を癒すことには役立ちそうにない品々を 次々に 狭い家の中に運び入れ、部屋の真ん中に積み上げ始めた時、氷河たちは その所業に(?)ほとんど憤りをしか感じなかったのだった。
氷河の家に勅使を案内してきた村長が、こんなことなら瞬を自分の家に引き取ればよかったと羨んでいたが、氷河は怒りが先に立って、村長や王の勅使に 事情説明を求めることすら 思いつかなかった。

マーマの熱は、一向に下がる気配が見えず、彼女は 息をするのも苦しげ。
もう何日も果汁以外の飲食物を口にしていない。
そんな病人のいる家で歓迎されるのは、医者と薬だけである。
だが、この村に医師はいないのだ。

「王の勅使だか、王子の勅使だか知らないが、ここは王家の物置じゃないんだ。とっとと外に運び出せ!」
この国で最も偉い人間の使いだという男を、氷河は遠慮のない大声で怒鳴りつけたのだが、王の勅使は 氷河の無礼を咎めることはしなかった。
「これでもまだ足りないくらいだと、陛下は おっしゃっておいででした。今となっては陛下の ただ一人の肉親を、これまで お育てくださった恩人には 感謝してもしきれない――と」

“陛下の ただ一人の肉親”とは誰のことなのか。
誰が、それを育てたのか。
どうして そんなことになったのか。
時が時でなかったら、氷河は 王の使いに説明を求めていただろう。
瞬が それなのだと説明されて、のんびり驚くこともできていたかもしれない。
時が時でなかったら。
彼の母が元気な時であったなら。

だが、今は、時が時だったので――氷河は それ以上、王の使いの相手をする気にはなれなかったのである。
だというのに、王の使いは、今は病室になっている氷河の母の寝室にまでやってきて、そこにいた病人と看護人に向かって、(あくまで丁寧で へりくだった態度と言葉で)王のただ一人の肉親が この家で育てられることになった事情を 勝手に語り始めた。






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