瞬は 育った村を去るしかなかったし、氷河も 瞬を引きとめることはできなかった。
馬で行けば半日、徒歩でも丸2日あれば行き着くことのできるテッサリアの都は、もともと氷河には“遠くにある場所”だったが、瞬が村を去ってからは 更に遠い場所になった。
瞬が村を去って2日後には、ギリシャ随一という評判を取っている名医が、氷河には使い方もわからない治療のための器具や 高価な薬を馬に積んで 氷河の家にやってきたが、さすがは名医というべきか、彼は すぐに『氷河の母は助からない』という診断を下してくれた。

「私は むしろ、あなたの母君が今も生きていることの方が奇跡に思えます。あの病――母君の身体は、10年前――いや、15年前に死んでいてもおかしくはないものだ。まるで冥府の王が、死の神に務めを果たすことを禁じていたのだとしか、私には思えません」
ギリシャ随一の名医が言うには、氷河の母の身体を侵している病は“ゼウスの病”と言われていて、原因も治療方法も不明。
医者や学者の間では、大神ゼウスが、地上の人間が増えすぎることを防ぐために撒き散らしている病と考えられているのだそうだった。
その病を得た人間は皆、20歳前後までしか生きていられないらしい。

「もしかしたら――」
氷河を気の毒そうな目で見詰めていたギリシャ随一の名医は、言いかけた言葉を、結局は 言葉にせず、
「お力になれず、申し訳ありません」
と 氷河に頭を下げ、彼の医術で救うことのできる患者たちの許に帰っていったのである。


名医が口にしなかった言葉を 氷河に語ってくれたのは、氷河の母だった。
病床で痩せ細った彼女は、既に 自身の死期を悟っているようだった。
「氷河……私は、今になってわかったの。本当なら 私は もうずっと前に死んでいたはずの人間だったことが。私が これまで生きてこれたのは、きっと、瞬ちゃんの乗った葦舟を 氷河が拾ってきたからだったのだわ。瞬ちゃんを育てるために、私は 神によって死を免除されていたのよ。そして、その務めを果たしたから――神は私に 私の死を返してきた。氷河が 瞬ちゃんを見付けてきてくれたから、私は本来の運命よりずっと長く、氷河の側にいることができたの」
「……」

氷河の母から死を取り上げ、その時を先延ばしにした神は、おそらく冥府の王である。
瞬を愛している冥府の王。
母の推測は正しいのだろうと、氷河は思った。
そして、一度 取り上げたものなら、永遠に取り上げたままにしておいてほしかったと思った。
今になって すべてを取り上げてしまうのなら、最初から。
そうすれば、自分は今、これほどの つらさも 苦しみも 悲しみも味わわずに済んだのに――と。
氷河の母は、氷河とは違う考えのようだったが。
「氷河が 瞬ちゃんを見付けてくれて、本当によかった。おかげで、私は、氷河が立派な青年になるまで、氷河と一緒にいることができた。神の情けを得ることができた。その上、瞬ちゃんを育てることもできた。氷河と瞬ちゃんと一緒にいられて、私は ずっと幸せだったわ」

瞬を見付けてしまった 彼女の息子。
彼女のためではなく 瞬のために、その命を永らえさせた冥府の王。
そして瞬。
彼女の運命を変え、今になって 悲しい別離と深い悲しみを彼女に与えようとしているものたちを、彼女は愛し、感謝してすらいるらしい。
愛と善良な心だけで生きてきた彼女なら そう考えるのだろう――そう考えることもできるのだろう。
だが、氷河には、そう考えることができなかったのである。

考えることなどできるわけがない。
身勝手な神の気まぐれや 運命のいたずらのせいで、彼は、瞬と母を一度に失おうとしているのだ。
神に感謝などできるわけがなかった。

母と瞬と――これまで幸せだった分、一人になることが つらい。
だが、その思いを母に告げることはできない。
死を受け入れようとしている母に そんなことを訴えて 彼女の心を痛めることは、氷河にはできなかった。
だが、彼女は、氷河の そんな心も見通していた。
だからこそ、彼女は言ったのだろう。
彼女の愛する息子のため――愛する息子たちのために。
「氷河。瞬ちゃんを連れ戻しに行きなさい。相手が この国の王だろうと、冥府の王だろうと、怯むことはない。それは、氷河が生きていくために必要なこと。瞬ちゃんを取り戻さなければ、氷河は、身体だけが生きているだけの屍になってしまう。氷河は、生きて幸せになるのよ。氷河のために。そして、私と瞬ちゃんのために」
と。

「マーマ……」
今にも死の神の腕に抱きとめられそうな様子をしながら、この女性は何ということを言ってのけるのか。
彼女は“生きる目的”に与えてやらなければ、彼女の息子が不幸な人間になるしかないことを知っている。
そして、生きる目的――それは“希望”という名を持つものである――さえあれば、人は幸福になれることを知っているのだ。
氷河の瞳に 小さな希望の火がともったことを確かめて、彼女は微笑んで、最後の一呼吸を静かに吸い込んだ。

「氷河と瞬ちゃんに出会えて、一緒にいられて、私は とても幸せだったわ。氷河と瞬ちゃんの幸せだけがマーマの願いよ」
それが 彼女の最期の言葉――とても彼女らしい、最期の言葉だった。






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