ヤマトタケルの妃 オトタチバナヒメは、ヤマトの国の有力豪族 穂積氏の出。 彼女は幾人もいるタケルの妃や妻の中では最も多い9人の男子を、タケルとの間に儲けている。 どれほど戦功を立てても決して報われることのなかった悲劇の英唯とされるヤマトタケルだが、彼は幾人もの妃や妻との間に、記紀に記録が残っているだけで20人近い 子を成しており、そのうちの半数はオトタチバナヒメとの間に儲けた子なのだ。 彼女はクマソ征伐の後、東国平定を命じられた夫に同道。 当時は 蛮族と認識されていた蝦夷の支配する地に向かう。 そして、東国の荒ぶる神によって 嵐を起こされ、タケル一行が乗っている船が沈みかけた際、その身を海の神にささげることで嵐を鎮め、夫と夫の乗る船を救うのだ。 オトタチバナヒメの犠牲によって命を救われたヤマトタケルは、自分のために海に身を投げた妻を偲んで、『吾妻はや(我が妻よ)』と 三度 嘆いたという。 その嵐の中に飛ばされることを、氷河と瞬は覚悟していたのである。 だが、彼等の三度目の時空跳躍の先は海の上ではなかった。 おそらく 東国平定を完了したタケルが、ヤマトへの帰還を目指す途中。 分け入ることも困難に思えるほど鬱蒼と生い茂った木々を抱いた山の麓の あばら家。 ヤマトタケルは病を得たのか、床に臥せっており、英雄の傍らには壮年の兵士が二人いているだけで、オトタチバナヒメどころか 女性の影もない。 九州クマソの地で会った時には16、7歳の少年だったヤマトタケルは、今では30歳前後。 男としても、戦いの指揮官としても、最も意気盛んな年頃だというのに、彼の顔には既に 死相が現われていた。 思ってもいなかった場所に飛ばされて、死に瀕したタケルの姿を見ることになり、瞬は――おそらく氷河も――呆然としたのである。 ここがヤマトタケル臨終の場なのだとしたら、オトタチバナヒメは とうの昔に亡くなっている。 オトタチバナヒメは、自身の窮地には瞬たちを呼ばなかったのだ。 では彼女は――彼女は、自分が助かることなど考えてはいない。 彼女は、あくまで、彼女の夫が窮地を逃れることだけを願っているのだ。 しかし、アテナの聖闘士としても、医師としても、人の死の場に幾度となく立ち会ってきた瞬には、タケルの様子を一目見ただけで わかってしまったのである。 彼は もう助からない――ということが。 戦いに次ぐ戦い。 父帝の命令に従い、父帝のために どれほど多くの敵を倒し、勝利を重ねても、父帝からは どんな賛辞も栄光も与えらなかった悲劇の英雄。 強くなればなるほど 父に疎まれ恐れられるばかりだった彼の人生。 ヤマトタケルの心身は、既に限界に達していたのだ。 「三貴神様……」 ヤマトタケルが瞬たちに初めて出会った時から、彼の主観では15年前後の時が過ぎている。 ナターシャが変わらず幼い姿をしているので、彼は瞬たちが不死の神であることを疑っていないようだった。 見捨てられた あばら家の土間に敷かれた麻布の上に横たわっているタケルの傍らに膝をつき、瞬は その首に触れてみたのである。 頸動脈の脈圧は弱々しい。 見たところ、外傷はない。 彼の身体と心は正しく“弱って”いた。 「氷河。ナターシャちゃんを連れて、外にいてくれる?」 ナターシャに人の死を見せないために、瞬は 氷河に そう告げた。 ナターシャは勘がいい。 瞬の様子から、ナターシャは その時が近付いていることを察したらしい。 そして、他の人の死は いざ知らず、ヤマトタケルの死は、彼女によって悲しむべきことではなかったのだ。 「ヤマトタケルは、これから 白鳥になって飛んでいくんだネ!」 氷河の腕に抱きかかえられているナターシャの声は弾んでいた。 「ナターシャちゃん……!」 ナターシャの嬉しそうな声を聞いたタケルが、閉じがちだった目を見開くのを認め、瞬は唇を噛んだ。 人が鳥になって飛んでいく。 それは魂が飛ぶということ。 飛翔は、地上の身体的束縛からの“解放”を意味するのだ。 「あ……それくらい、あなたが元気になるという意味で――」 励ましにも慰めにもならない言葉を 瞬がタケルに告げたのは、ナターシャの無邪気の罪を少しでも軽くしようとしてのことだったかもしれない。 しかし、彼は、それで 己れの死を悟ったようだった。 「お三方が、私が白鳥になると おっしゃるのなら、そうなのでしょう……」 古代日本最大の英雄。 日本人の判官贔屓の傾向は、彼の死によって生まれたとまで言われる悲劇の英雄。 死に瀕しているからではなく、まだ生きているから――彼は悲しげだった。 「私は何のために生まれ、戦い続けてきたのか……。ヤマトの国から遠く離れた こんな地で、近しい人たちから離れ、たった一人で死んでいくために、私は生まれてきたというのか――」 彼の嘆きは、瞬の胸にも傷を作った。 彼と同じように戦い続け、彼と同じように たった一人で死んでいく者たちを、瞬は 数多く知っていたから。 そして、彼の死は 未来の自分の死と重なるから。 否、自分の死に重なるだけなら、さほど つらくはない。 仲間の死と重なることが、瞬は つらかったのだ。 瞬の心を察したのだろう氷河が、急に苛立ちを見せ、不機嫌になる。 「何のために生まれてきた、だ? 貴様に そんなことを嘆く権利があるか。貴様は、それでも皇子だろう。強制的に こんな遠征に駆り出され、貴様に従って 戦い死んでいった貴様の兵たちには、自分が何のために生まれてきたのかなんてことを 優雅に考えたり嘆いたりする余裕もなかっただろう。貴様より ずっと 理不尽な死を強いられた者たちの無念に、貴様は 思いを至らせたことがあるのか!」 “それでも皇子”である彼は、氷河に怒鳴りつけられるまで、彼の兵士たちの心になど 思いを馳せたことはなかったのだろう。 死を前にして、皇子でも何でもない ただの一人の人間になって初めて、彼は それを考えたに違いなかった。 「私が弱かったばかりに……」 機転も利かず、深い思索もしない皇子。 彼は、自分が犠牲を出さずに勝利できなかったことを悔やんでいるのだろうか。 それとも、自分が 父帝の命令を拒み 戦いを避けるだけの強さを持ち得なかったことを嘆いているのか。 そのどちらであっても――瞬は、オトタチバナヒメが この心弱い夫を深く愛する訳だけは わかったような気がしたのである。 彼は 真っすぐなのだ。 身分柄、周囲の人間の考えや立場を思い遣ることはできないが、自身の益も考えない。 自分を愛してくれない父帝を倒してしまえば、空しい戦いから逃げることもできたのに、そんなことは考えもせず、それどころか 自分を厭う父帝を恨み憎むことさえできない。 オトタチバナヒメは、もしかしたら、彼女の夫の弱さ愚かさをこそ愛したのかもしれない。 それは、彼女にとって、愛すべき弱さ、愛すべき愚かさだったのだ。 悲しいほどに。 「僕たちがここに来たのは、あなたに呼ばれたからではなく、あなたを思うオトタチバナヒメに、あなたを助けてくれと訴えられたからです。オトタチバナヒメは、死んでなお、あなたの身を案じている。あなたは、あなたに冷たい父帝より、あなたを愛してくれている人こそを見た方がいい」 「あの人が……?」 夫のために、その命を 荒ぶる神に捧げた妻。 オトタチバナヒメの名を聞くと、タケルは ふいに表情を穏やかにし、その瞳に 失われた妻を懐かしむ光を宿した。 「父に疎まれ、戦いを続け、こんな場所で一人で死んでいく――。だが、そうだ。私は 多くの人に愛された。つらい時ばかりではなかった。明るく美しい彩りの日々もあった。私は白鳥になって、あの人の許に飛んでいくのだな」 自身の生が つらいだけのものでなかったことを思い出したことが、タケルの愛憎半ばする父への恩讐を消し去ったのだろうか。 瞬に 眼差しで『ありがとう』と言い、古代日本最大の英雄ヤマトタケルは静かに息を引き取った。 |