問題は、絶対評価と相対評価にあったらしかった。 ナターシャの可愛らしさは 他の家の子供はおろか 海の女神たちすら比較対象にならないと考える氷河と、パパとマーマは 公園にいる どのパパやママより恰好よくて綺麗だと思うナターシャ。 季節感も、和菓子の食べ方も、風雅も情緒も関係ない。問題は、比較対象の有無だったのだ。 「公園には よその人が いっぱいいるけど、ナターシャのパパが いちばんカッコよくて、ナターシャのマーマが いちばん綺麗ナノ。それで、カッコいいパパと綺麗なマーマでいいねって、みんながナターシャに言ってくれるノ。よそのおうちのパパは、ナターシャのパパみたいにカッコよくないし、よそのおうちのママは ナターシャのマーマみたいに綺麗じゃないノ。ナターシャは……ナターシャは……」 これまで 公園に行くたび、ナターシャは いつも そう思っていたのだそうだった。 よそのおうちのパパより、ナターシャのパパはカッコいい。 よそのおちのママより、ナターシャのマーマの方が綺麗。 公園や大勢の人がいるところに行き、よその家のパパやママを見ると、どうしても比べてしまう。 そして、ナターシャのパパは よその家のどのパパよりカッコいい、ナターシャのマーマは よその家のどのママより綺麗だと思ってしまう。 そう思うことが悪いことだとは思ってもいなかった。 だが、そう思うのは よくないことだと、アンドロメダ姫の母親の話を聞いて、ナターシャは知ってしまった。 それが神様が怒るような、とてもよくないことだと、ナターシャは知ってしまったのだ。 「『パパがカッコいい』と『マーマが綺麗』と『ナターシャが可愛い』が三点セットなんダヨ。それで、パパとマーマとナターシャは“キレイなゴカゾク”で、みんなが そう言ってくれるのが嬉しくて、ナターシャ、大得意だったノ。パパとマーマとナターシャは 公園で いちばんキレイなゴカゾクで、特別なゴカゾクで、ナターシャは いつもピノキオみたいに鼻タカダカだったノ……」 それが まさか、神様を怒らせるような悪いことだったとは。 パパとマーマをイケニエに差し出せと言われたらどうすればいいのか。 大きなカイジューがやってきたら どうすればいいのか。 それが自分の鼻タカダカのせいだと知ったら、パパやマーマはきっと ナターシャにがっかりする。 そして、ナターシャが悪い子だったと知って、悲しむに違いない。 だが、よその家のパパやママがいるところに行くと、そんなことを思ってはいけないと思っても、ナターシャのパパは よその家のどのパパよりカッコいい、ナターシャのマーマは よその家のどのママより綺麗だと思うことをやめられない。 だから、せめて これ以上 悪い子にならないように―― ナターシャは外出を避け、引きこもりになっていた――のだそうだった。 「聖域やアテナの聖闘士の戦いを知っているせいで、海獣とか神様とかが、ナターシャには絵本の中だけの存在じゃないからなぁ……」 星矢がぼやく通り、ナターシャにとって、それは現実に起こり得る危機。 カシオペアの愚かで傲慢な振舞いの物語を 単なる教訓話として聞き流すことは、ナターシャには 到底できることではなかったのだろう。 そして、いつも ナターシャを 優しい いい子だと言ってくれるパパとマーマに、本当のことを打ち明ける勇気を、ナターシャは なかなか奮い起こすことができなかったのだ。 パパやマーマを がっかりさせたくなかったから。 「ナターシャちゃん……」 これは もしかしたら、平素から 口癖のように『ナターシャちゃんは優しい いい子』を繰り返していたことの弊害なのかもしれない――と、瞬は少なからず反省したのである。 だから ナターシャは、自分が いい子でなくなることで、パパやマーマをがっかりさせることを、極度に恐れるようになってしまったのかもしれない――と。 だが、パパとマーマをがっかりさせたくなくて、そうなることを恐れ、気持ちが沈むナターシャは、やはり いい子なのだと思う。 ナターシャは 少なくとも、パパとマーマの叱責から逃げるために 本当のことを言わずにいたわけではないのだ。 そんなナターシャの前で、今、彼女のパパとマーマが がっかりした態度を見せるわけにはいかなかったし、実際に 瞬はがっかりしていなかった。 瞬にとってナターシャは、これまでと変わらず“優しい いい子”で――そう思ってしまう自分には、氷河を親馬鹿と笑う資格はないのかもしれないと、瞬は胸中で苦笑したのである。 瞬は、身体を縮こまらせ 顔を俯かせているナターシャの頭を撫でた。 一度 びくりと大きく身体を震わせたナターシャが、いかにも恐る恐るといった体で、マーマの顔を見上げてくる。 その視線を捉えて、瞬はナターシャに尋ねた。 「ねぇ、ナターシャちゃん。ナターシャちゃんは、氷河がゴリラみたいに もっそりしてて、顔もゴリラみたいで、あんまり綺麗な服も着ていなくて、公園に行っても誰もカッコいいって言ってくれなくて――そんな氷河に 可愛いって言われても嬉しい?」 「エ……」 「僕がマンドリルみたいに 長い顔をしていて、真っ赤な鼻を ふがふがさせてて、ぼろぼろの服を着てて、公園に行くと みんなに変な顔だって笑われて――そんな僕に 可愛いって言われても嬉しい?」 「パパがゴリラで、マーマがマンドリルなの……?」 それはナターシャには奇抜に過ぎる例え話だったのだろう。 それでも ナターシャは、多分、ゴリラの顔をした氷河と マンドリルの顔をした瞬を懸命に想像してみた。 そんな二人に『可愛い』と言われた時の 自分の気持ちを真剣に考えてみたのだ。 やがて、答えが出る。 「ナターシャは、ウレシイと思う。ダッテ、ナターシャはパパとマーマが大好きダカラ。ナターシャはパパとマーマがカッコよくて綺麗だから好きなんじゃないカラ」 ナターシャの答えは、瞬が望む通りのものだった。 ナターシャは、愛情というものが どういうものなのかを、ちゃんとわかっている。 愛情も 美しさも 優しさも 誰かを好きと感じる気持ちも、すべては“心”という形のないものから生まれるものだということを、ナターシャは ちゃんとわかっているのだ。 ナターシャの出した答えは、瞬の口許に微笑を運んできた。 「うん。それがわかっているなら、大丈夫だよ。ナターシャちゃんが氷河と僕を好きでいてくれるように、よその おうちの子も 自分のパパとママを好きでいる。よそのおうちの子には、きっと自分のパパがいちばんカッコよく見えていて、自分のママが いちばん綺麗に見えている。それがわかっているのなら、公園にいる人たちに 可愛いって言ってもらえたナターシャちゃんが鼻高々になっても、神様は怒らない。どこのおうちの子供も そうだっていうことを、神様は知ってるから」 ナターシャは いい加減な大人たちより、いつも はるかに真剣に生きるということをしている。 マーマに『大丈夫』と言われ、それだけで 大丈夫だと思い込むようなことはしない。 ナターシャは、瞬の言葉をしっかり咀嚼し、誤りなく理解するための努力を怠らない、極めて勤勉な少女だった。 ぱたぱたと幾度か瞬きをしてから、ナターシャが瞬に確認を入れてくる。 「ナターシャが鼻タカダカでいても、パパとマーマはイケニエにされない?」 「うん。そんなことにはならないよ」 「ナターシャが ナターシャのパパとマーマが世界で いちばんカッコよくて綺麗だって思ってても、カイジューは暴れない?」 「きっと海獣も、自分のパパとマーマが世界で いちばんカッコよくて綺麗だと思ってるから、ナターシャちゃんの気持ちを わかってくれるよ」 「ソッカー。カイジューもナターシャと おんなじなんダー」 「うん。きっとね」 瞬が笑って頷くと、ナターシャは それで完全に納得してくれたらしい。 久し振りに、ナターシャが瞬と氷河に明るい笑顔を見せる。 そうして ナターシャは、 瞬の膝の上に身体を乗り上げるようにして、彼女のパパとマーマに尋ねてきた。 「パパとマーマは、ナターシャがおサルさんみたいに ほっぺが真っ赤で、お尻が真っ赤でも、ナターシャを 可愛いって言ってくれる?」 「え?」 虚を衝かれて、瞬は すぐにはナターシャに頷くことができなかった。 ナターシャは、瞬が口にした言葉の内容を完全に理解している。 その上 彼女は、自分が理解したことを応用する力も有しているのだ。 氷河と顔を見合わせてから、瞬はナターシャに はっきり わかるように、意識して大きな動作で ナターシャに頷いた。 「もちろんだよ。ナターシャちゃんは、おさるさんになっても、優しい心を持ったナターシャちゃんなままなのに決まってるもの」 「おまけに、頭もいい」 「ほんと。氷河が親馬鹿になるのも仕方がないね」 「そういう おまえも 氷河に負けないくらい鼻高々になりかけてるけどな」 星矢に 言われて、瞬は ほとんど反射的に、右手で自分の鼻を押さえてしまったのである。 本当に、自分の鼻が高くなっているような気がしたから。 幸い、瞬の鼻は、手で触れて確認した限りでは、はっきりした変化は生じていなかったが。 半ば本気で自分の鼻を心配しているような瞬を見やり、星矢と紫龍が 呆れた顔になる。 『瞬がついていれば、氷河は大丈夫』というフレーズが安全保障の保証書たり得たのは、昔の話。 保証書の期限は、いつのまにか切れてしまっていたのだ。 「結局、おまえらは二人揃って親馬鹿なんだよ。ったく、ガキの頃から ずっと生死を共にして戦ってきた仲間に、証拠もないのに ろくでもない濡れ衣を着せやがって! 氷河! おまえは この落とし前を どうつけてくれるんだ !? 」 「そういえば、ナターシャ。この地上に存在する動物の中で、鼻が高いのは人間だけなんだぞ。ゴリラもマンドリルも鼻は潰れていて高くない。象の鼻は長いが、高いわけではない。犬や猫の鼻は、上顎の上に ちんまりと載っているだけ。鼻高々は、人間だけにできる特別な技、人間だけの特権。言ってみれば、人間の証明なんだ」 「何が人間の証明だ! 氷河、おまえ、俺の話を聞いてんのかっ」 氷河はもちろん、星矢の話など まるで聞いていなかった。 彼は、自分が引き起こした冤罪事件の解決より、彼の娘が 優しく聡明で可愛らしく、そして幸福でいることの方が、はるかに大事なことなのだ。 「諦めろ、星矢。今の氷河には、地上世界の平和すら、ナターシャの幸福のために存在するものなんだ」 紫龍が 現状を受容と承認を 星矢に勧めて、 「ごめんね、星矢。でも、ナターシャちゃんの幸せのためだから、氷河は誰より必死に 世界の平和を守るために戦うと思うよ」 さすがに 氷河ほどには良識を失っていない瞬が、その現状も 悪いばかりのものではないと知らせることで、怒れる星矢の心を静めようとする。 他人の迷惑を顧みない、非常識で でたらめな男(=氷河)のせいで 気苦労の絶えない二人の仲間(=瞬と紫龍)のために、星矢は怒りの矛を収めるしかなかった。 紫龍は、現実を認め受け入れるという行為で 彼の人間性を示す。 瞬は、つらい現実の中に希望を見い出すことで 己れの人間性を示す。 そして、星矢は、そんな二人の心と立場を思い遣ることで、自らの人間性を示す(しかない)のだ。 「パパ、パパ。鳥さんの お鼻はどこにあるの」 「ナターシャは、鳥の鼻を見たことがなかったか? それは、一度 実物を見ておいた方がいいな」 鼻の高さで 人間の証明を行なう男は、知的好奇心で人間の証明を行なう娘のために、次の休日は動物園に行くことにしたようだった。 Fin.
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