対面の場に 救世の姫君が伴ってきたのは、先導役と随行員を兼ねているらしい黒髪の若い女が一人きりだったのだが、彼女は かなりの美女だった。 髪だけでなく 身につけているドレスも黒一色で、氷の国の者たちは不吉な印象を抱いたが、そのドレスは大粒の黒真珠が散りばめられた豪華なもので、この対面の場に 姫の従者が盛装で臨んだことは確かだった。 彼女の黒衣は、もしかしたら、炎の国からやってきた王女を 少しでも明るく見せるための演出なのかもしれない――と、対面の場で姫を迎えた者たちの幾人かは(氷河も、その中の一人だった)は思ったのである。 その黒衣の女は、姫の手をとって 玉座に座っている氷河の前に進み出ると、開口一番、 「お人払いをお願いいたします」 と、世界を滅ぼす力を持つ王に向かって指図した。 その場にいたのは、氷の国の王と 王の近習である星矢と紫龍、10名の国務大臣と女官長が1名だけ。 既に人払いは澄んでいるようなものだったというのに。 「ここにいるのは、我が国の国務大臣と 王妃の生活の一切を取り仕切る女官長、あとは俺の近習だけだ。これ以上、どう人払いしろというんだ」 言いたいことを言う友人たちに、言いたいことは言われ慣れている。 氷河が その女の指図に むっとしたのは、女の口調が 妙に偉そうだからではなく、既に示している配慮に 更に注文をつけられたからだった。 しかも、その理由が、 「瞬様は、大変 内気で奥ゆかしい方なのです。安易に お姿を人目に触れさせるわけには まいりません」 という、公人中の公人にあるまじきもの。 氷河は、意地でも その要望を容れるものかという気になってしまったのである。 「ここにいる者たちには 王妃の顔を覚えてもらう必要があるんだ。その大層なヴェールに『私は王妃です』と、誰にでも一目で それとわかるように でかでかと書いておいてくれるのなら、それでも構わんが。それができなければ、今後の王妃の生活と 王室の運営に支障をきたす。王妃が 王妃と気付かれずに 城内の者に軽んじられたり、不審者として牢に放り込まれてもいいというのなら、話は別だが」 氷河が 星矢と紫龍を側に置くのは、彼等が いかなる権威権力にも臆することなく、言いたいことを言う人間だからである。 王に対してだけでなく、王以外の誰に対しても。 氷河は、実は それができない。 この世界を滅ぼす力を持つ王が、ほんの少し 機嫌を損ねた様子を見せるだけでも、人によっては震え上がり、恐縮し、氷河の機嫌を悪化させまいとして、正しいことや真実さえ 口にしなくなってしまうのだ。 だから、氷河の意を ほぼ正確に汲み取って、氷河の代わりに言いたいことを言ってくれる星矢と紫龍が、氷河には必要だった。 その氷河に、直接、あからさまに、不快の念を示されたというのに、黒衣の女は 全く臆した様子を見せなかった。 言葉だけは、氷河の主張を容れたが、態度は いかにも反抗的に、 「瞬様の お顔を覚えられれば よろしいのですか」 と、問い返してくる。 マイナスの感情を表に出してはならない自分の立場を思い出した氷河が ただ頷くと、黒衣の女は それ以上の抵抗は見せなかった。 彼女は、自分の方が無茶を言っているのだということは自覚していたらしい。 「瞬様。お聞きの通りです。やむを得ません。しばし、お顔を――お顔だけ」 “瞬様”が、レースのヴェールとフードの向こうで、微かに頷く。 黒衣の女が やたらと時間をかけ、やけに勿体ぶって、王妃の顔を隠していたヴェールを取り、フードを外したのも、新王妃の価値を吊り上げるための演出なのに違いないと勘繰った者が、その場には幾人かいた(かもしれない)。 ちなみに、氷河は、今回は その“幾人か”の中に入っていなかった。 入っていたかもしれなかったが、そんな勘繰りをしていられたのは、黒衣の女が勿体ぶっていた間だけ。 黒衣の女が勿体ぶり終わった瞬間に、氷河の勘繰りは 真夏に降る雪のように跡形もなく消え失せた。 炎の国の王の女版である(と推測されていた)彼の王妃の様子が、あまりに 想像と違っていたせいで。 王妃を見て、氷河が何も言わず、阿呆のように ぽかんとしていたのは、彼が言いたいことを言えない立場の人間だからではなく、その時 氷河は実際に 阿呆になっていた――言葉どころか、思考さえ まともな形を成すことができなくなっていたからだった。 そんな氷河に代わって星矢が、“言いたいこと”を言ってくれた。 「これが、あの一輝の妹 !? 嘘だろ! 全然 暑苦しくないし、滅茶苦茶 美少女じゃないか! てか、こんな美少女、俺、初めてお目にかかったぞ! 誰だよ、炎の国の王女が 一輝の女版だなんて、悪質なデマを流したのは! 隠す必要なんか、どこにもないだろ。性格もよさそう、頭もよさそう。さすがは一輝、妹の養育にも 抜かりなし。完璧じゃん!」 言いたいことを言えない氷河に代わって、『今いち』くらいは言わなければならないだろうと思っていたのに、目の前に現れたのは、たった一つの粗を探すのも難しいほどの美少女。 手放しで褒められる新王妃の登場に浮かれて、星矢の口は軽く なめらかになった――軽く なめらかになりすぎてしまったようだった。 深窓の姫君だけあって、ここまで人に“言いたいこと”を言われた経験がなかったのだろう。 星矢の大絶賛に、新王妃が困ったように瞼を伏せる。 新王妃は、確かに彼女の兄に似て、顔の部品の配置は美しく 歪みもなかったが、その部品そのものが 兄のそれとは かなり違っていた。 土台である顔それ自体に至っては、全く別物だった。 顔の部品は 兄に比べて総じて小振り。いかにも繊細な作り。 瞳だけは 兄より大きいが それこそが彼女の最大の魅力で、その瞳は 疑いようのない清らかさ、優しい気性と知性を示している。 白く なめらかな肌、やわらかい髪、細い指は、兄とは真逆。 炎の国の王を(一応)美形と思っている星矢は、美の多様性というものに、いっそ呆れていた。 似たようなことを、紫龍は、新王妃の兄ではなく、氷河の母に比べて考えたらしい。 「確かに これは 絶世と言っていいな。先の王妃様が白薔薇なら、新王妃は白百合といったところか。先の王妃様と、少々 タイプが違うのは いいことだ。人となりが同質でも、見た目の印象が違うと、氷河にも別のものとして受け入れやすいだろう。氷河は果報者だ。母親に奥方、美しい女性に ここまで不自由しないとは、前世の行ないが どれほどよかったんだ」 紫龍が口にした“言いたいこと”は、星矢のそれに比べれば、節度と客観性のあるものだったのだが、黒衣の女には、露骨で不躾な星矢の品評より 紫龍の節度ある評価の方が気に障ったらしい。 彼女は、対面の場に揃っていた大臣たちに、険しい顔で、 「瞬様のお顔は 覚えていただけましたでしょうか」 と、咎めるように問うた。 新王妃の想定外の“お顔”に衝撃を受けた大臣たちは、揃って 腑抜けたような“ツラ”を並べている。 彼等に代わって、星矢は、 「忘れようもないだろ」 と、黒衣の女に答えてやった。 『当たりまえだ』とでも言うかのように、黒衣の女が顎をしゃくる。 「これほど初々しく可憐な王妃様の お世話ができるとは、これに勝る喜びはございません」 さすがに 女官長は 国務大臣たちほどには 美少女に魂を持っていかれなかったようだったが、その女官長ですら、それこそ 少女のように頬を上気させて、彼女の新しい主人の前に腰を折った。 黒衣の女は、しかし、そんな女官長に対しても冷淡だった。 「瞬様は、ご自分のことは ご自分でなさいますので、あまり あなたのお手を煩わせることはないと思いますが、どうぞ よしなに。では、皆様、ご退出ください」 氷河が阿呆状態から脱却できていないせいで、その場を取り仕切るのは、この城の主ではなく 異国から やってきた黒衣の女の方だった。 女性同士で通じ合うものがあるのか、あるいは、自分が仕えることになる主人の美貌への喜びが 付き添いの女の冷淡への不快に勝ったのか、女官長は気を悪くした様子を見せない。 腑抜けた大臣たちは “様子”と言えるほどのものも示さず(示せず?)、黒衣の女に命じられるまま、それこそ夢遊病者のような足取りで扉の方に歩き出した。 阿呆状態の氷河を一人で敵陣に(?)残すのは かなり不安だったのだが、星矢と紫龍は、氷河が この場に留まれと命じてこない限り、自分たちも大臣たちと共に この場から退出するしかないだろうと思っていた。 実際、二人は そうしようとしたのである。 だが、その時、想定外のことが起こった。 異国からやってきた黒衣の女が、二人を呼び止めたのだ。 それも、しっかり名指しで。 「お二方が 星矢殿と紫龍殿か」 大臣たちに続きかけていた星矢は、その声で 足を止めることになった。 そして、黒衣の女を振り返る。 「なんで知ってんだ?」 彼女とは、もちろん初対面である。 こちらは、彼女の名も、どんな権利があって彼女が これほど偉そうなのかも知らないのに、彼女はそうではないらしい。 眉根を寄せた二人に、彼女は 更に奇異なことを言ってきた。 「お二人は お残りください。陛下が――瞬様の兄君が、お二人には真実を告げ、協力を仰いだ方がよいだろうと おっしゃっておいででしたので」 「へ?」 どんな“ご協力”を求められることになるのかは知らないが、星矢と紫龍はそんな信頼を寄せられるほど、炎の国の王と懇意ではない。 懇意どころか、直接 口をきいたこともなかった。 せいぜい、炎の国の王の戴冠式に招かれた氷河と共に炎の国に出掛けていき、いつもの調子で 主君に言いたいことを言っていた場に 一輝が居合わせていたことがあったことくらい。 そして、氷河の戴冠式に一輝が招かれてやってきた際に、同様のことがあったくらいのものである。 もし新王妃に氷の国の人間の特別な配慮を必要としているのなら、それには女性である女官長の方が適役だろう――と、星矢と紫龍は思った。 女性の方が 細かいところにまで気がまわるだろうし、新王妃も 同性の方が 何かと気安いだろうと。 意外な展開に、氷河も さすがに我にかえる。 阿呆でいることをやめた氷河と、ご指名の理由がわからずにいる星矢と紫龍に、黒衣の女が 仰いできた“ご協力”は、実際 同性にしか頼めないものだった。 |