「彼、小さな頃からプロのサッカー選手になるのが夢で、実際 有望で、小学校の頃からプロクラブの下部組織に所属していたんだって。そして、順調にユースに昇格。高校卒業と同時にプロクラブとの契約が確実視されていたみたい。子供の頃からの夢は ワールドカップ優勝。でも、怪我で……その夢は叶わなくなった。僕も あさはかだったと思うけど……彼を落ち着かせるために、『歩けなくなるわけじゃないんだから』なんて、そんなことを言ってしまったんだ」
それが よほど気に障ったのだろう。
死に損なった高校生は激昂し、瞬を責めてきた。

『大人は無責任に子供に“大きな夢を持て”って言う。けど、そう言う大人たちは 夢なんて持ってないんだ。きっと大人ってのは みんな、最初から夢を持たなかったか、適当なところで夢を諦めて、だから 大人になれた奴等なんだ。詐欺だろ。俺は馬鹿だから、大人たちの言うことを真に受けて、大きな夢を持って、その夢の実現のために無我夢中で頑張ってきた。サッカー以外のことを全部 うっちゃって、毎日毎日サッカーの練習。俺には サッカー以外の取りえはないし、サッカー以上に大事なものもない。そのあげく、このざまだ。いったい 俺にどうしろっていうんだよ!』
死に損なった高校生は、そう 瞬を怒鳴りつけてきたのだそうだった。

彼は、サッカーに関係のない友人も作らず、自分の夢の実現のために サッカーの上手い人間、強い人間とだけ付き合い、ユースに昇格できなかったチームメイトとは すぐに交友を断った。
彼の怪我は試合中のラフプレイによるもので、入院後、家族以外に見舞いにきたのはコーチだけ。
それも、申し訳程度に。
自分に友だちがいなかったことに、彼は それで気付いたらしい。

サッカーしかできない人間が サッカーができなくなれば、誰からも必要とされない人間になる。
その事実――それは、事実なのだろうか? ――が、彼に 自分の存在意義を見失わせたのか。
自分の夢しか見ていなかった子供の末路。
同情はしないが、その子供の虚脱感、虚無感、やるせない気持ちは、氷河にも わかるような気がしたのである。
「おまえのいない俺のようだ」
――と思うから。
瞬がいてくれなければ、自分は 人とつながりを持つ方法が いつまでも わからないままだったろうと、氷河は思っていた。
今も もちろん人付き合いは苦手だが、瞬のおかげで、“苦手”程度で済んでいる。

「夢が叶わないことなんて、考えもしなかった。最初から、夢が叶わないこともあるんだってことを教えておいてくれれば、夢が叶わなくても絶望したりしなかったのに、どうして大人たちは 子供に『夢を持て』としか言わないんだ――って、彼は怒るの」
その言い分は至極尤も。
だが、大人が子供に言えるものだろうか。
『夢を叶えられる人間は ごく僅かしかいないから、夢が叶わなかった時のことも考えておけ』と?
夢が叶わない時のことを考えていたら、人が本気で夢を追い続けることは難しい。
そのせいで、叶うはずの夢が叶わなくなることがないともいえない。

だから、大人は子供に成功者の話ばかりをする。
挫折した人間の話など、大人は子供に聞かせたくないのだ。
氷河も、ナターシャに そんな話はしたくなかった。
瞬も――そんなふうな大人の気持ちがわかるから、自殺を図った高校生への対応に迷うことになったのだろう。
その高校生は、ただ がむしゃらで 純粋だっただけなのだ。
――と、言えないこともない。

「夢を持つことの大切さは わかってる。でも、僕は、夢が叶わない人がいることも知ってる。努力だけじゃ駄目なことも わかってる。僕は――」
瞬の顔が つらそうに歪む。
瞬が何を思って 痛みを感じているのかが、氷河には すぐに わかった。
聖闘士になれなかった仲間たち。
100人いた聖闘士候補のうち、聖闘士になれた子供は僅か10人。
90人が、自身の願いを叶えることができなかった。
彼等が その後 どうなったのか、確認もできていない。
氷河が わかっていることを、瞬もわかっていた。

「僕も努力はしたけど、僕の中には、聖闘士になりたくないっていう気持ちもあって、本当に命がけだったかというと、自信を持って、そうだったとは言い切れない。僕より努力して、でも、聖闘士になれなかった子は たくさんいたと思う」
氷河が瞬に、『そんなことはない』と言ってやれないのは、氷河自身、『自分は誰よりも努力した』と自信を持って言うことができないからだった。

「『新しい夢を見付けて』って言うことはできるけど、『生きていれば、別の夢を叶えられるかもしれないよ』って言うこともできるけど――言いにくいんだ。言っても、今の彼には 気休めにもならないだろうし。……『夢を持て』って言うのは無責任なのかな」
瞬の迷いへの氷河の答えは、
「夢を持つことを強いるのはよくないだろうが、そもそも 夢のない人間なんて、生きていないも同じだろう」
だった。
“夢”や“希望”は、そのまま“欲”や“願い”と言う言葉に置き換えることができる。
『こうなりたい』
『こうなればいい』
そういう気持ちを全く抱くことなく生きている人間など、この世界には存在しないのだ。

「うん……」
瞬が、氷河の言葉に、いかにも心許なげに頷く。
『夢のない人間は、生きていないも同じ』
だから、瞬は その高校生に、『生きて、新しい夢を見付けてほしい』と思う。
だから、その高校生は 瞬に、『夢を失ったんだから、自分は生きている甲斐がない』と言う。
二人の思いは 平行線を辿り、いつまでも交わらない。
その上 瞬は無駄に真面目なせいで、無責任に『夢を持て』『生きていろ』と言うこともできないのだ。
もちろん、放っておくこともできない。

そして 氷河は――そんな瞬が好きだから、やはり瞬を放っておけなかった。
カウンター越しに、瞬の頭に手をのばし、瞬の頭を撫でながら、その髪をくしゃくしゃと乱す。
顔を上げた瞬に、氷河は、
「俺の子供の頃の夢は、『マーマを俺の手で幸せにすること』だった」
と低く告げた。
その夢が永遠に叶わなくなったのは、大きな衝撃だった――大きな挫折だった。
だが、氷河は 今も生きている。
つまり、そういうことなのだ。

「おまえが そのガキを助けたのは正しい。そのあとのことは別の問題だ。一度 死に損なったら、もう一度 死ぬ決意をするには時間がかかるだろう。そのガキが 生きるに値する人間なら、何か考えるさ。おまえは、おまえらしい お節介で、馬鹿なガキに 利口になるための時間を与えてやったんだ」
「氷河……」
「大丈夫。人間ってのは――真に利口になるのも難しいが、完全に馬鹿になるのも 難しいものだからな。それに――」
「それに?」
「人間ってのは、基本的に 生きていたがる動物だ」

氷河が 確たる根拠があって そう言っているのでないことは、瞬にもわかっていた。
氷河は ただ、迷っている瞬の心を安んじさせたいだけ。
そして、瞬に笑っていてほしいと思っているだけなのだ。
根拠などない。
にもかかわらず、瞬は いつのまにか氷河の願いを叶えてしまっていた。
口許に、つい笑みが浮かぶ。
人間というものは、基本的に 生きていたがる動物なのだ。
そのために、希望を見付け、喜びを感じる才を与えられている――。






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