氷河がカウンターを出て、瞬とナターシャが座っているテーブル席にやってきたのは、彼が この店のバーテンダーでいることをやめ、ナターシャのパパになったからだったろう。
彼は、ナターシャの向かい、瞬の隣りの席に腰を下ろした。
そして、幼い子供に言う。

「叶わないかもしれないからといって、最初から夢を持たない人間は ただの馬鹿だ。そして、叶わないかもしれないからといって、夢を叶えるための努力ができない人間は不幸だ」
「氷河……」
小学校の就学年齢にも達していない子供に、そんな険しい目をして、そんなに厳しいことを言わなくても――そもそも、言って、どこまで理解してもらえるものか。
パパの恐い顔(氷河は いつも恐い顔をしているが)に釣られるように 口許を きつく引き締めたナターシャを見て、瞬は 少し はらはらした。
大好きなパパの言葉を しっかり理解しようとして、ナターシャの目は 真剣そのものである。

「自分だけの自分らしい花を咲かせればいいだの、自分が世界に一つだけの花だだのと、馬鹿げたことを言う輩がいるが、そういうことを言う奴等は無視しろ。あの手の言葉は、人が大きな夢を持つことを邪魔するだけの言葉だ。その上、耳障りのいい言葉で、百合は薔薇になれず、薔薇は百合になれないことを、ごまかすことまでしている。二重の意味で よろしくない」

着替えを済ませて フロアに出てきたシュラが、カウンター席の蘭子に 低く囁く。
「ディープな躾をしているな」
「ナターシャちゃんみたいに 小さな女の子に、あんなことを言ってもねぇ……。正直、氷河ちゃんが何を言いたいのか、大人のアタシにも わからないわ。夢を持てって言ってるんだか、持つなって言ってるんだか」
蘭子の混乱は当然。
と、瞬は思った。

氷河は ナターシャに、終始一貫して、『夢を持て』と言っている。
確かに わかりにくいが、それだけは 10代の頃から変わらない氷河の信念。
おそらく 彼の死の瞬間まで、その信念は揺らぐことはないだろう。
だが、確かに わかりにくいのだ。
これではナターシャは、大きな夢を持つことが良いことなのか悪いことなのか、夢は叶うものなのか叶わないものなのか、理解できない。

ナターシャは その年齢以上に賢明な少女だが、その賢明は 彼女の勘の良さに支えられているもので、彼女の経験値は歳相応、もしかしたら それ以下なのだ。
案の定。
ナターシャは、氷河の前で苦しそうに眉をしかめた。
「ン……ト、ンート。夢を持ってないのは良くないことで、だから夢は持ってた方がよくて、百合の花は薔薇の花になれなくて、薔薇の花は百合の花になれない……?」
ナターシャの中には、氷河の言葉の最初と最後だけが 強い印象をもって残ったらしい。
その最初と最後が矛盾しているので、彼女は混乱しているようだった。

が、氷河には それで何の問題もなかったらしい。
氷河が、(傍目には無表情に見える)満面の笑みで頷く。
「そうだ。夢は もちろん持っていた方がいい。そして、どんなに百合になりたいと願っても 薔薇は百合になれず、どんなに薔薇になりたいと願っても 百合は薔薇になれない。だから、薔薇と百合は 一緒に夢を叶えるのがいいんだ。俺と瞬のように」

ナターシャがパパの言うことを理解するより先に、瞬が氷河の発言に腑に落ちるより先に、
「何よ! 氷河ちゃんの言うこと、アタシ、すごく真剣に聞いてたのに、結局 ただのノロケだったの !? 」
蘭子の大音声が店内に響き渡った。
そうとも取れる。
蘭子の言う通り、そう解することもできるが、氷河の言いたいことは そうではないのだ。
そういうことではないはずだった。

「見破られたか」
「ナターシャちゃん!」
氷河の低い ぼやきを打ち消すために、瞬は、蘭子ほどではないにしろ、瞬にしては大きな声で ナターシャの名を呼んだ。
パパの言うことより 瞬の大声の方が、ナターシャには難しかった(?)らしい。
ナターシャは、なぜ瞬が突然 大声をあげたのかが わかっていないようだった。

「ナターシャちゃん。夢は一人で叶えるものじゃないって、氷河は言ってるんだよ。一人では叶えられない夢も、みんなで力を合わせて、支え合って頑張れば、きっと叶う。氷河は――僕たちは、そうやって夢を叶えてきたんだよ。星矢や紫龍や一輝兄さん。僕が挫けそうになった時は、必ず 僕の仲間たちが支えて励ましてくれた。氷河が倒れそうになった時も、みんなで助け起こした。きっと 誰だって そうだよ。大きな夢を叶えた人の側には、必ず仲間がいる。オリンピックで金メダルを取った人も、絶対に一人で取ったんじゃない。仲間に支えられて 取ったんだ。仲間がいれば、一人で見るより、もっと大きな夢を見ることもできる。夢を叶えることは、百合や薔薇や いろんな花でブーケを作るようなものなんだ、きっと」

「お花のブーケ?」
綺麗なものが大好きなナターシャは、彼女の中で、氷河の言葉を綺麗なブーケに作り替えたらしい。
そうして、彼女は パパの言葉を理解したようだった。
緊張し 固くなっていたナターシャの肩から、ふっと力が抜ける。

「そうねえ。誰の どんな夢だって、一人で叶えることは難しいわよね。周囲の人に助けられて、夢は叶うのよ。頑張ってる人を見ると、自分には何の益もないことでも、つい 力を貸したくなるし」
蘭子が 少し真顔になって、賛同の意を示す。
「ええ。そうですね」
蘭子は 特に その気持ちが強そうだと、瞬は思った。
いわゆる姉御肌。
でなければ、彼女は、氷河やシュラのように 組織の中に収まることのできない人間を雇い続けてはいられまい。
無論、それは二人がイケメンだという理由もあるのだろうが。

「ナターシャ、やっぱり、頑張って 優しい おーなーになるヨ! それで、困ってるイケメンの正義の味方を いっぱい助けてあげるんダヨ!」
ナターシャの瞳が 再び――先刻より もっと明るく輝き始める。
「じゃあ、アタシが、いいイケメンと悪いイケメンの見分け方を教えてあげるわ」
早速 現れたナターシャの夢の協力者に、ナターシャは気を良くしたようだった。
カウンターに戻った氷河は、逆に渋面になる。

「俺のように恰好いい彼氏を見付けるのには協力しないぞ」
氷河は また滅茶苦茶なことを言う男に戻ってしまったが、ナターシャは もう挫けなかった。
「ナターシャは、もっと大きな夢を叶えるんダヨ。ナターシャは、パパよりカッコいい彼氏と仲良くなることにするヨ!」
ナターシャの明るい宣言で、自分が墓穴を掘ってしまったことに気付いた氷河が、こめかみを引きつらせる。
そして、氷河は、瞬に救援を求める視線を投げてきた。
瞬にとって 氷河は、共に夢を叶えるために支え合い励まし合って生きてきた大切な仲間である。
そんな瞬でも、氷河が掘った墓穴の埋め戻し作業にまでは 協力する気になれなかった。



「彼を助けたことは正しかったと思う。でも、僕は、彼を助けた責任を どう取ればいいのかが わからなかった。もっと つらい目に会った人もいるだの、もっと深い絶望を味わった人もいるだの、そんなことを言って励ますようなこともできなかったし。でも、僕にできることをしてみるよ。そうすることで彼に憎まれても、それで彼が自分の命を絶とうなんてことを考えなくなってくれるなら、それでいい」
店を出る際に告げた瞬の言葉への氷河の返事は、
「そんなガキ、放っておけばいいのに」
だった。






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