氷河と瞬が、蘭子にナターシャを預けて、光が丘公園に向かったのは、そこに ナターシャの保護者に会いたがっている人がいると、蘭子に言われたからだった。 夏の日の夕暮れ。 光が丘公園の憩いの森と芝生広場をつなぐ遊歩道脇、その最も端にあるベンチ。 氷河と瞬は、蘭子に言われた場所に急いだのである。 わざわざ 氷河と瞬のマンションまで足を運んでくれた蘭子は、氷河に、今日は開店を遅らせてもいいとまで言ってくれた。 蘭子が そこまで言ってくれるのは、公園で待っている人というのが、ナターシャの保護者にとって よほど重要な人物だからなのだろう。 そう、氷河と瞬は思った。 なにしろ、その重要人物が会いたがっているのは、“氷河”と“瞬”ではなく、“バーテンダー”と“医師”でもなく、“アクエリアスの氷河”と“バルゴの瞬”でもなく、“ナターシャの保護者”なのだ。 オデカケやオサンポが大好きな あのナターシャが、ここ1週間ずっと、オデカケは 『シタクナイ』、オサンポは 『イキタクナイ』と言って、外出を避けていた――公園に行くことを避けていた。 “ナターシャの保護者に会いたがっている人”が、もしかしたら ナターシャの変貌の理由を知っているのではないか。 氷河と瞬は――“ナターシャの保護者”たちは――そうであることを期待していたのである。 光が丘公園の憩いの森と芝生広場をつなぐ遊歩道脇、その最も端にあるベンチ。 太い幹から多くの枝が長く伸び、重たげに見えるほど 深い緑色の葉が繁ったケヤキの木の横にある それは、見付けようと意識して探さなければ その存在に気付かないようなベンチだった。 四方に広く伸びている枝葉が濃い影を落とすため、日中は必ず木陰の中にいることになるのだろう。 夏場の特等席といえる そのベンチに座っていたのは、50代半ばと おぼしき痩身の男性。 両手で掴んだ白い杖を身体の正面に立て、その杖に すがるようにしてベンチに座っている。 氷河と瞬が声を掛ける前に、彼は、 「ナターシャちゃんのお父さんとお母さんですか」 と、瞬たちに向かって尋ねてきた。 全盲ではない――のではなく、彼は、音や気配で 氷河と瞬の存在を察知したらしい。 彼の瞳は、全く光を宿していなかった。 「はい」 「ああ、やはり。これほど近くで お会いするのは初めてですが、身辺の空気が違うのでわかります。とても涼やかで凛としたお父さんと、温かく優しいお母さん。お二人共、とても美しく清らかな空気をまとっていらっしゃいますね。さすがは ナターシャちゃんのご両親のことだけある」 「恐れ入ります。あの……」 “ナターシャの保護者に会いたがっている”のだから、当然のことではあるのだが、彼は ナターシャを知っている――ナターシャの人となりを知っている――らしい。 だが、直接 ナターシャと言葉を交わしたことはないのだろう。 直接 ナターシャと言葉を交わしたことがあるのなら、日々の出来事を どんな些細なことでも必ずパパとマーマに報告するナターシャが、彼女の保護者達に彼のことを話さずにいるはずがない。 では 彼は一方的に ナターシャを知っているだけなのか。 そもそも この男性は何者なのか。 瞬が その辺りの説明を求めようとすると、盲人は、今度も 瞬が その言葉を口にする前に、瞬の求めに応じてきた。 「不躾に、失礼いたしました。私は、空知と申します。ご覧の通り、目が不自由で……これは生まれつきのもので、まあ、50年以上 盲人をやっていますと、大概のことは健常者と同じようにできますし、健常者以上に ものが見えることもあるのですが――いえ、そんなことよりも」 瞬が知りたいことは そんなことではないと、その名の通り、空気で察したらしい空知氏は、自分で自分の話の腰を折り、 「ナターシャちゃんは――体調がよくないのでしょうか。最近、公園で声を聞かない」 と、瞬に尋ねてきた。 「ナターシャちゃ――娘は、元気にしています。ただ、公園に来ることを嫌がっているんです。1週間ほど前から」 「そうでしたか……そうでしょうね……」 彼は、やはり何かを知っているらしい。 おそらくは、ナターシャが ふさぎの虫に取りつかれた訳を。 「何か ご存じですか。ご存じでしたら教えてください。娘は、このところ すっかりふさいでいて――とても明るくて元気な子だったのに……」 理由を訊いても、ナターシャの返事は『ナンデモナイ』。 ナターシャは、パパとマーマに心配をかけないために『ナターシャ、ダイジョウブ』と言うこともできないほど、その心を沈ませているのだ。 ナターシャの様子を知らされた空知氏は、 「ええ」 と 頷いてから、 「ああ」 と 嘆きの声を洩らした。 |