夕方の 光が丘公園。 以前の彼の散歩コースから外れた けやき広場の脇の遊歩道。 そこにナターシャがいることに気付くと、小犬を連れた男の子は、ぎくりとした顔になって、その足を止めた。 自分の卑怯と弱さを自覚している目。 逃げ出すこともできなかったのか、あるいは、二度も逃げることはしたくなかったのか、彼は彼が立ち止まった場所から動かなかった。 瞬は、ナターシャと一緒に その男の子の許に行って、彼に『もう気にしないで』と言ってやるつもりだったのである。 『ナターシャは無事だったのだから、君は何も気にしなくていいんだよ』と。 だが、瞬が そうする前に、ナターシャは 瞬と氷河を その場に残し、一人で その男の子に向かって駆け出していた。 ナターシャと向き合った少年が、何を言えばいいのかわからず――『ごめんなさい』も言えず――その場に突っ立っている。 突然 動かなくなった 飼い主を、彼の小さな薄茶色の犬が不思議そうな顔をして 見上げていた。 ナターシャは彼に『ごめんなさい』を言ってもらおうとは考えていないはずである。 ナターシャはどうするつもりなのか――。 少々 緊張して 二人の子供たちを見守っていた瞬の視線の先で、ナターシャは ふいに その場にしゃがみ込んだ。 そして、 「わんちゃん、可愛いヨ。触ってもイイ? わんちゃんの名前、何ていうノー」 と、リードを握りしめている男の子に尋ねる。 ナターシャに責められると思っていたのだろうか。 「マ……マメ」 と答えた男の子の声は、僅かに かすれていた。 「マメ?」 「マメ柴のマメ」 「マメシバのマメちゃんかー。ちっちゃいのに、カッコいいヨ」 ナターシャは 何事もなかったかのように そう言って、マメシバのマメちゃんの顔を見詰める。 何事もなかったかのようなナターシャの様子に驚き、そして安堵もしたらしい男の子は、ナターシャに愛犬を褒められて 嬉しくなったようだった。 「う……うん。マメは、チビなのに、きりっとしてるんだよ」 彼は 自分も その場にしゃがみ込んで、 「触ってもいいよ」 ナターシャの手の先で お座りをするよう、彼の愛犬に命じた。 おかげで ナターシャは、好きなだけ マメの頭や背を撫でることができ、マメもナターシャに撫でられると嬉しそうに鼻を くんくん鳴らした。 「マメちゃんが元気でよかったヨ」 ナターシャの その言葉で、マメの飼い主は、ナターシャの気持ちをわかってくれたようだった。 彼女を見捨てた者を責める気持ちが ナターシャにないこと、マメの無事を ナターシャが 心から喜んでいることを。 彼は、『ごめんなさい』の代わりに、ナターシャに、 「ありがとう」 を言い、パパたちの許に戻ろうとしたナターシャに、 「あ……あのさ! おまえなら、いつマメに触ってもいいよ!」 とまで言ってくれた。 ナターシャは、 「ヤッター!」 と喜びながら、瞬たちの許に戻ってきたのである。 二度ほど ナターシャの方を振り返って手を振ってから、マメと一緒に駆け出した男の子の足取りは軽快で、嬉しそうに弾んでいた。 彼の足は、これまでずっと 重たい枷を引きずっていたのだ。 「あのわんちゃん、マメシバのマメちゃんっていうんだって! ふわふわで、可愛かったヨ! 尻尾が くるんって、ドーナツみたいに丸まってるんダヨ!」 嬉しそうな男の子と 彼のマメを見送るナターシャの声も、明るく屈託なく 弾んでいる。 ナターシャは、余計なことを何も言わず、鮮やかに少年の心の傷を消してしまった。 おそらく全く自覚のないナターシャの優しさの技術に、瞬は感動をさえ覚えていた。 「尻尾がドーナツみたいなの? 可愛いね。ナターシャちゃんも、犬を飼ってみたい?」 尋ねてから、瞬は、ナターシャが飼い犬に夢中になって 犬と遊んでばかりいたら、その分 ナターシャに相手にしてもらえなくなった氷河が拗ねることになるかもしれない――と、それを案じてしまったのである。 「んー……」 幸か不幸か、暫時 迷ったナターシャの返事は、 「ナターシャには パパがいるからいい」 だった。 いかなる他意もなく、本心から 極めて素直に そう思ったらしいナターシャに、瞬は盛大に吹き出してしまった。 「そうだね。うちにはもう 氷河がいたね」 「どういう意味だ」 「氷河はマメシバのマメちゃんと同じくらい可愛いっていう意味でしょう」 少々の他意はあったが、本心から 極めて素直に(?)そう応じた瞬に、氷河が むっとした顔になる。 “クールでカッコいいパパ”が目標の氷河には、それは決して 嬉しい言葉ではなかっただろう。 「ソーダヨ! パパはマメちゃんと おんなじくらい可愛くて、マメちゃんとおんなじくらいカッコいいヨ!」 「む……」 ナターシャに マメちゃんと同レベルと言われても、堂々と異を唱えることのできない氷河が“クールでカッコいいパパ”になるには、まだ少しばかり 精進が必要なようだった。 Fin.
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