「なに……? 何なの、これは?」 天秤座の黄金聖闘士が持参した光の結晶のような小さな石が 自分の脳裏に映し出したものが何なのか理解できず、半ば自失したように、瞬は紫龍に問うた。 瞬と同じように、氷河も その顔を硬く強張らせている。 仲間たちの前でも――瞬と二人きりの時は別としても――クールを装うために、滅多に感情を表情として表さない氷河だが、今ばかりは、装うためではなく 困惑のせいで表情を作れずにいた。 いったい これは何なのか。 誰の記憶なのか。 氷河と瞬には 全く わからなかったのだ。 これは、ナターシャの目が見たものなのか。 ナターシャの耳が聞いたものなのか。 ナターシャの心が考えたことなのか。 だとしたら、不自然である。 最後に響いた声は、ナターシャが聞いたものではないだろう。 では、ナターシャと対峙していた、あの声の主が見たもの、聞いたものなのか。 それも あり得ない。 “顔の無い者”のギルドに関わるものであるらしい あの声の主は、ナターシャの心を読み取る力までは有していないようだった。 ナターシャでもなく、顔の無い者の一味でもなく――ナターシャが封じ込められていた空間を覗き見ていた、もう一人の誰かがいたのだろうか。 これは、時間の狭間、次元の狭間である、あの空間の記憶と表するのが 最も適切な記録である。 しかし、そうであったとしても――これが 実際にあったことであるはずがなかった。 氷河と瞬は 何者かにナターシャを奪われたことはなかったし(そのつもりだったし)、ナターシャは、たった今、ここに――氷河と瞬の許に――いるのだ。 「星矢お兄ちゃん、ケーキ 切るの、へたっぴダヨ。大きさが全然違うヨ。マーマなら、もっと上手に切るノニ」 「あのさ。丸いケーキを おんなじ大きさに5つに切り分けるなんて、最初から無理な話なわけ。これは これでいいんだよ。おっきい2つが 俺とナターシャの分。ちっちゃい3つが 氷河と瞬と紫龍の分。なんか 文句あるか?」 「ナターシャ、全然 文句ないヨ! 星矢お兄ちゃん、すっごく頭いいヨ!」 「へへん。ナターシャ、今頃、気付いたのか」 ナターシャは 星矢と一緒にキッチンで、紫龍が持参した春麗特製のパイナップルケーキのカットに盛り上がっている。 その笑顔には どんな陰りもなく明るく、とても こんな悲痛な経験を経た子供のそれとは思えない。 もしかしたら、これは、邪悪な目的を持った何者かが アテナの聖闘士の心を惑わすために捏造したものなのではないかとすら、瞬は考えたのである。 こんな偽りの出来事を捏造して、得をする者がいるとも思えなかったのだが。 「最後の声……ハーデスの声だったように思うけど……」 口にしたくない その名を、不本意ながら紫龍に告げる。 それまで無表情だった氷河が、ぴくりと こめかみを引きつらせ、おそらく 氷河に癇癪を起させないために、紫龍は別の神の名を出した。 「アテナが……1週間ほど前、おまえたちはナターシャを連れて、沙織さんのところに行っただろう?」 「あ、うん。沙織さんが、ナターシャちゃん用のサマードレスと、同じドレスを着たお人形を送ってくれたから――」 贈られたドレスを着たナターシャと一緒に、沙織に礼を言うために、瞬と氷河は城戸邸に出向いたのだ。 「おそらく 沙織さんは、ナターシャに会うために、ドレスを送ったんだろう。少し前から、沙織さんは ナターシャに違和感を覚えていたらしい。この結晶は、1週間前、ナターシャと会った時に、沙織さんが ナターシャの中から取り出したナターシャの記憶の結晶だ。何者かによって、ナターシャの中に封印されていたそうだ」 取り出した結晶を聖域に運んで解析したところ、思いがけない神の関与が判明し、沙織は、それをナターシャのパパとマーマに知らせないわけにはいかなくなった――らしい。 今日の紫龍の来訪の目的は、決して パイナップルケーキのお裾分けではなかったのだ。 「おまえたちと暮らすようになって しばらく経った頃、ナターシャは一度、顔の無い者のギルドによって 異次元に連れ去られ、アテナ暗殺を強いられて、それを拒んだんだ。パパとマーマに嫌われたくないの一心で。そのナターシャに気付いて、次元と時間の狭間から救い出したのが ハーデス――ということのようだ」 「ハーデスが、なぜ ナターシャちゃんを助けてくれるの」 聖域と冥界は 今、休戦状態にある。 とはいえ、両者は神話の時代からの宿敵同士。 聖域と冥界の間に 和解が成立したわけではない。 二人の黄金聖闘士が育てている少女を救うことで、ハーデスにどんな益があるというのだろう。 瞬には まるで合点がいかなかった。 「ハーデスは、沙織さんがナターシャの異変に気付くことも折り込み済みだったんだろうな。だから、ナターシャの記憶の中に、ナターシャには聞こえなかったはずの自分の声を紛れ込ませた。ハーデスの目的は、奴も言っていた通り、おまえに恩を売ること」 なめらかな口調で そう言ってから、紫龍は、 「なのか……?」 と、まるで自問するように呟いた。 そうとしか考えられない状況なのだが、紫龍もまた瞬同様、ハーデスの行ないに得心できていないらしい。 ハーデスの言動を理解する必要などないと思っている氷河が、忌々しげに舌打ちをする。 「恩に着ることはないぞ。危険だ」 ハーデスがナターシャを救い出して、彼女を彼女のパパとマーマの許に帰してくれたことには感謝するが、瞬としては、ハーデスに対して 感謝する以上のことはできない。 その感謝を何らかの形にして報いることはできない。 ハーデスも、それはわかっているはずだった。 それ以前に――もし ハーデスの目的が、本当に 彼の依り代になり得る者に恩を売ることなのであれば、ハーデスは ナターシャの記憶の結晶の中に これみよがしに 自分の声を紛れ込ませたりはしないはずだった。 あからさまに報恩を求めるような行為は、彼の美学に反するのだ。 もし そんなことをしたなら、彼のその行動には別の目的があり、それは真の目的を隠すための行動なのだとしか、瞬には思えなかった。 「もしかしたら ハーデスは、僕に恩を売るためじゃなく、ナターシャちゃんのために ナターシャちゃんを助けてくれたんじゃないかな? 顔の無い者の やり方が気に入らなかったせいもあるかもしれないけど、ナターシャちゃんの健気に感動して……。彼は 綺麗なものが好きだから」 「……」 氷河が むっとしたのは、ハーデスが最も愛する“綺麗なもの”――冥府の王の失われた肉体――のことを思い出したからだったのかもしれない。 あんなものと、ナターシャの健気な決意を一緒にされては たまらないと、彼は思ったのだ。 紫龍に、 「ハーデスの好みのタイプは、氷河と全く同じだからな」 と言われると、氷河は一層 不愉快そうな顔になった。 そこに、氷河の機嫌を直す特効薬が、星矢と一緒に、ケーキの載った皿を運んでくる。 「おっきいのが、星矢お兄ちゃんとナターシャのダヨ。星矢お兄ちゃんとナターシャは 育ち盛りだから、おっきなケーキを食べなきゃならないんだっテ」 星矢に そう言うように言われたのだろう。 ナターシャに そんなことを言わせて したり顔でいるアラサー男に、氷河と紫龍は呆れた顔になった。 「ナターシャちゃんは、僕たちのナターシャちゃんでいるために、永遠の眠りを覚悟したんだね」 「エ?」 ナターシャは何も憶えていないようだった。 瞬の呟きに、ナターシャが不思議そうに首をかしげる。 瞬は、そんなナターシャに微笑で応えた。 「ナターシャちゃんは とってもいい子だっていうお話をしてたんだよ」 今度は、意味のわかる言葉。 ナターシャは嬉しそうな笑顔になった。 「ナターシャはパパとマーマのナターシャだから、いい子なのは アッタリマエダヨ!」 「うん。そうだね」 「確かに、アッタリマエだ。ナターシャは、俺と瞬の娘だからな」 そのアッタリマエのことを、アッタリマエにできない者は多い。 自分の益のために、あるいは、不安や脅威に負けて、当たりまえのことができない人間は数多くいるのだ。 『ナターシャは、俺と瞬の娘だ』 氷河に そう言ってもらうために、ナターシャは、実は決してアッタリマエではないことを、アッタリマエに決意したのだろう。 ナターシャの健気なアッタリマエに免じて、氷河は、自分を育ち盛りだと言い張る星矢の頭を殴ることをやめた。 人類の粛清と 地上世界を滅ぼそうとした冥界の王と、水瓶座の黄金聖闘士を 同類項にくくってくれた紫龍に嫌がらせをすることも断念した。 瞬を自らの魂の器として利用するという邪悪な目的のために、瞬に恩を売りつけようとした(のかもしれない)冥府の王に毒づくことも しなかった。 すべては、ナターシャのアッタリマエに免じて。 平和とは、こんなふうにして 生まれ、守られるものなのかもしれない。 Fin.
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