氷河の自宅の住所――といっても、最寄り駅の名だけだったらしいが――を、無遠慮な彼女にばらしたのは蘭子だった。 無遠慮な彼女に、『氷河を落としてみろ』と けしかけたのも、実は蘭子だった。 無遠慮な彼女を不愉快に思うどころか、蘭子は、彼女の奮闘振り(と 空回り振り)を、胸中で大笑いしながら眺めていたらしい。 「ほーんと、近来稀に見る愉快な見世物だったわー」 と言いながら、悪びれた様子も反省の色もなく、けろっとした顔で、蘭子は 事の次第を氷河と瞬に語ってくれた。 ちなみに、今日のシンデレラは蘭子の奢りである。 そもそもの原因は、渋谷の再開発計画だった――らしい。 再開発計画地域に建つ予定のビルの中に、バーに打ってつけの物件があり、そこに3号店を出すべく、蘭子は不動産屋と仮契約をした。 ――のだそうだった。 「それが、すごくいい物件なのよ。メインの通りには面していなくて、奥まったところにある一画なんだけど、バーって、もともと隠れ家的存在でしょう。むしろ、最高の条件。いずれ、渋谷は、お子様の町じゃなく、大人の町になる。以前から、3号店を出すなら渋谷って決めてたから、アタシは、即決で契約、手付金を払ったの。けど、それが、あの無遠慮女が目をつけて、手付金を用意するのに手間取ってた物件だったらしいのね。金の工面もついたし、不動産屋に先に話を通してたのは自分だから、お店の権利を譲れって、アタシのところに交渉しにきたの」 もちろん、蘭子は断った。 だが、向こうも引き下がらない。 幾度かの押し問答の間、どうあっても譲らない蘭子に、やがて 彼女は ウマオイの鳴き声に似た悪口を投げつけ始めたらしい。 当然 蘭子は激怒して、(なぜか)彼女に 権利譲渡の条件を提示した――のだそうだった。 すなわち、蘭子が経営するバーのバーテンダーを落とすことができたなら、その手腕に敬意を表して、店の権利を譲ってもいい――と。 「なぜ俺を巻き込む」 氷河の憤りは、至極当然。 しかし、蘭子は、彼女の雇われバーテンダーの不満を軽く受け流した。 「それは、もちろん、瞬ちゃんへの氷河ちゃんの愛を信じてるからよ。あの自信過剰女に 氷河ちゃんを落とせるはずがないって、確信できてたから」 全く悪びれることなく、にこにこ笑う蘭子に、『それは間違いだ』と反駁するわけにもいかず、氷河が沈黙する。 そんな氷河とは対照的に、蘭子は いよいよ饒舌になっていった。 「あの子、実家は北関東の端の方にあって、相当の金持ちらしいのよ。でも、あの子は マンガだか小説だかの影響で、まだ未成年だったのに バーテンダー志望。バーテンダーになるための修行をしたいって 親に言ったら、大反対された。田舎の いいとこのお嬢さんだし、適当な女子大に行って、家格の吊り合う いいとこのお坊ちゃんのとこに嫁入り――ってのが、親が描いていた既定路線だったわけ。今時 そんな時代遅れなこと言う親に反発した娘は、家出同然、勘当同然で東京に出てきて、一人暮らしを始めた。そうこうするうちに、同僚のバーテンダーと親密になって、同棲開始。最初のうちは うまくいってたらしいのよ。相手の男は 結構な野心家で上昇志向の持ち主。しかも 大口を叩く男だったから、勝気な彼女とは似た者同士で ウマが合ったんでしょうね。駆け出しの頃から、自分の店を持って有名店にするって、いつも言ってたらしいわ。で、ある時、二人して バーテンダーコンテストに出場したのはいいけど、彼女の方が優勝しちゃったの。男の方は、箸にも棒にも引っ掛からなかった。地道な努力が嫌いな 口だけ男だったから、それも当然のことなんだけど」 「あの方、バーテンダーなんですか……」 バーテンダーのコンテストも、全国規模、世界規模の大々的なものから、酒造メーカーやホテルバーの採用試験を兼ねたような小規模なものまで ピンキリだが、ともあれ一つのコンテストで優勝するくらいなら、平均以上の腕を持っているのだろう。 酒の味がわかるのも道理。 では、彼女は コンテストに入賞できず気落ちしている同棲相手を元気づけるために、二人の店を出す計画を立て、蘭子との争いが起きることになったのか――と、瞬は考えた――推測した。 が、残念ながら、蘭子の話は、そんな心温まる感動的な方向には進まなかった。 「そのコンテスト以来、二人の仲が ぎくしゃくし始めたのね。腕で彼女に劣るなら、努力するか、分をわきまえて 小さくなってればいいのに、その口だけ男は 自分の未熟を棚に上げ、彼女に当たり散らして 暴力を振るうようになったの。そのせいで、彼女、肩に怪我をした――上腕骨を折って、肩峰にヒビ。手術とリハビリで 日常生活に支障はなくなったし、シェーカーが振れなくなったわけでもないんだけど、以前の感覚は戻らなかった。彼女、完全主義者だったから、腕の悪いバーテンダーになんか、意地でもなれなかった。で、バーテンダーになれないのなら、バーのオーナーになろうと考えた。もちろん、男とは綺麗さっぱり別れてね。肩の手術の時に連絡を入れた実家の親は、バーテンダーになるんじゃなく、店を経営するのならいいっていうんで、出店資金を出してくれることになったらしいの。きっと、それで無鉄砲な娘に手綱をつけておこうとしたんでしょうね。あんな娘を持った親も大変よ」 そういう経緯を経て やっと、話は蘭子との争いに至る――らしい。 20代半ばで、なかなかに壮絶な人生。 夫もしくは妻、恋人によるDVについての情報は持っているし、その被害者の治療をしたこともある瞬が、その可能性に全く 思い至らなかったのは、あえて言えば、彼女の勝気と自信のせいだった。 DVの被害者は 暴力によって精神までを支配されることが多く、大抵は 自分に自信を持つことができず、卑屈 もしくは臆病になる。 しかし、彼女には そういったところが 全くなかったのだ。 おそらく 精神的支配に及ぶ前に怪我をしたか、DV被害の記憶への反動ゆえ。 思い込みが激しく、支離滅裂なところがあるのも、DVの後遺症なのかもしれない。 だとしたら 彼女は同情されてしかるべき人間である。 「ともかく、その一件で 彼女、ちゃらいバーテンダーが大嫌いになっちゃったらしいのよ。自分のバーには 女のバーテンダーしか雇わないって言ってたわ。アタシとの物件交渉中に、ウチのバーテンダーを そんなのと一緒にしないでよって、売り言葉に買い言葉で喧嘩になって、アタシ、つい勢いで、氷河ちゃんを落とせたら 権利を譲ってやるわよ! って、言っちゃったのよネー」 「蘭子さん……!」 瞬が咎める口調になったのは、 「だって、バーテンダーが嫌いなのに、バーを経営しようなんて、おかしいじゃない」 そんな矛盾のせいではなかった。 出店計画という重要な案件の動向を、氷河に委ねる(しかも、氷河当人には何も知らせず)ことの無謀を、瞬は責めたかったのである。 もし氷河が、彼女の手に落ちていたら どうするつもりだったのだ――と。 答えが、すぐに蘭子から返ってくる。 「アタシ、あの子が氷河ちゃんを落とせたら、本当に権利を譲ってもいいと思ってたのよ。それができるなら、商売だって成功しそうじゃない? 同情の余地もある子だし。でも、バーを経営するには、あの子、20年くらい早かったわね。開店資金も自力で用意できないような甘ちゃんじゃ。アタシは、1号店を出す資金は、この筋肉だけで稼ぎ出したものよ」 「それは……とても ご立派です」 「ま、あの子に氷河ちゃんを落とすなんて、120パーセント、無理だとは思っていたけどね。ターゲットが氷河ちゃん、ライバルが瞬ちゃん、しかも ナターシャちゃんの後方支援つき。どう考えたって、無理無理むーり」 「……」 確かに 蘭子が提示した権利譲渡の条件は、無遠慮な彼女には 分が悪すぎた。 自分が彼女の立場に立たされたら、氷河を一目 見た時点で賭けから降りるだろう――と、瞬は思った。 氷河が一筋縄ではいかない男だということを、彼女は見抜けなかったのだろうか。 氷河は、一筋縄は 言うに及ばず、地球全体をカバーできるネビュラチェーンをもってしても、決して その心を動かすことのできない男である。 「でも、お気の毒です……」 「瞬ちゃん、相変わらず甘いわね、こういうことは、クールにいかなきゃ。それが結局、あの子のためになるのよ」 「そうかもしれませんけど……」 「あの子はもっと 男を見る目を養うべきなの。でないと、この先、世の中を渡っていけないわよ。なにしろ、この世の中、人類の半分は男なんだから」 蘭子が言うと、言葉に重みがあるような、ないような。 「そういうわけで、第2ラウンドのターゲットは瞬ちゃんってことになってるから。瞬ちゃんを落とせたら、例の物件の権利を あの子に譲る。渋谷にビルが建って、オープンの準備に入るまで、あと2年弱。しばらく退屈しないわぁ」 「は……?」 「なに?」 身体全体を笑顔にして、いったい蘭子は何を言っているのか。 氷河と瞬は、二人揃って 声を失ってしまったのである。 一難去ってまた一難。 その日は、氷河が蘭子のバーで働くようになって初めて、彼がグラスを手から滑らせて割った、記念すべき日になった。 Fin.
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