中国で修行を続けているはずの紫龍の息子・翔龍が、突然 氷河と瞬が暮らしているマンションのリビングルームに姿を現わしたのは、その翌日のことだった。
翔龍が日本に来ているという話を聞いていなかった瞬は、彼の突然の出現に びっくりしてしまったのである。

「翔龍くん? どうして……何かあったの?」
血はつながっていないのに、翔龍の面差しは(顔の造作ではなく、表情が)どこか紫龍に似ている。
彼は、紫龍のそれに似た微笑を、その目許と口許に浮かべた。
「父さんから聞いてはいましたが、本当に こちらの都合を尋ねもせず、突然 呼び出すんですね」
「え……」
誰が彼を呼び出したのかは、尋ねるまでもない。
どちらが大人で どちらが子供なのか わからない氷河の乱暴な振舞いに、瞬は 軽い目眩いに襲われてしまったのである。

「ごめんなさい。氷河は――」
『悪気はないのだ』と言いかけて、やめる。
悪気がないということは、反省に及ぶ可能性がなく、言動を改めることも期待できないということである。
実際に 氷河は反省もせず、言動を改めることもしないだろうと思うから、瞬は 気休めにもならない言葉を口にすることは無益かつ無意味と判断し、沈黙した。
翔龍を呼びつけた氷河は、瞬の予想通り、“反省”などという言葉は見たことも聞いたこともないと言わんばかりに、自分のしたいことだけをする。
彼は、椅子に掛けているナターシャの前に翔龍を突き出し、にこやかに(傍目には無表情にしか見えないのだが)告げた。

「ナターシャ。妹は作ってやれないが、代わりに お兄ちゃんはどうだ? 翔龍は紫龍の息子、ナターシャのお兄ちゃんも同様だ。お兄ちゃんの方が、妹より頼り甲斐があっていいだろう?」
翔龍の都合を確かめもせずに 彼を呼び出した氷河は、なぜ彼を呼びつけたのか、その訳すら翔龍に伝えていないのだろう。
氷河の お兄ちゃん紹介(?)に困惑しつつ、彼は無難なコメントを口にした。

「ははは。俺は、どちらかというと、ナターシャちゃんの兄というより、氷河さんたちの弟分といった方がいい年齢ですが」
翔龍は、氷河や瞬とは13、4歳違いだが、ナターシャとは もっと歳が離れている。
だからというわけでもないのだろうが、氷河の期待に反して、ナターシャは翔龍を自分の兄と認めてはくれなかった。
「紫龍おじちゃんの子供は、パパとマーマの子供じゃないヨ。ナターシャの お兄ちゃんじゃないヨ。ナターシャが欲しいのは、ナターシャより ちっちゃな、パパとマーマの子供ダヨ」
「……」

氷河の“翔龍 お兄ちゃん化計画”は、ものの見事に失敗。
ナターシャからの駄目出しを食らうと、氷河は、むっとして リビングのソファに座り込んでしまった。
その場に立っている(立たされている)翔龍に、投げやりな態度で手を振って、
「ああ、翔龍。もう帰っていいぞ」
と、退場を指示する。

真面目に修行に励んでいた若者を、問答無用で唐突に呼び出し、役に立たないとわかるや 唐突に追い払う、氷河(一応、大人)の振舞い。
二人の間に立たされて、瞬は、ひどく いたたまれない気持ちになってしまったのである。
「翔龍くん。本当にごめんなさい。この埋め合わせは必ず――」
「いえ。お気になさらず。噂には聞いていましたし、父さんの気持ちが味わえて、楽しかったです」
瞬の立場を慮って、言葉にはせず視線だけで、『瞬さんのせいじゃありませんよ』と、翔龍が瞬に語りかけてくる。
氷河の無茶を責めるどころか、瞬を気遣ってくれる翔龍の大人な振舞いに、瞬はますます申し訳ない気持ちになってしまった。

だが、同時に、瞬の胸には 温もりを伴った嬉しさがこみあげてきたのである。
血が繋がっていなくても、翔龍は間違いなく紫龍の息子。
そう感じられることが、瞬は嬉しくてならなかった。
「翔龍くんは、本当に紫龍に似ている。ごめんなさい。ありがとう」
翔龍も、瞬の言葉が嬉しかったらしい。
「ちょうどいいので、母に会っていきます」
微笑んで そう言い、彼は 今度は聖闘士の力を使わずに自分の足で、もちろん ちゃんと玄関から、氷河たちの家を辞していったのだった。


そうして、翔龍が辞去したあとのリビングルーム。
いったい彼は なぜ、何をするために うちに来たのだろう? とでも思っているのか、その説明を求めるように、ナターシャが幾度も交互に氷河と瞬の顔を見上げてくる。
彼女のパパが、人様の都合も考えずに迷惑行為を行なった事実を 事細かにナターシャに説明するわけにもいかなかった瞬は、
「翔龍お兄ちゃんは、翔龍お兄ちゃんのパパとマーマのおうちに行く途中で、ウチに寄ってくれたんだよ」
と言って、ナターシャを納得させたのである。
それで すっかり疑念が消えたわけでもなかったらしかったが、ナターシャは それ以上の説明を瞬に求めてはこなかった。






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