日没の時刻が早くなっていた。 太陽はまだ1ミリたりとも その姿を山の端にも ビルの谷間にも隠していないのに、せっかちな地上の空気は 早くも夕暮れの色に染まる準備に取り掛かっている。 ベランダに出て、太陽が通り過ぎたあとの南の空を見詰めているパパの横顔を、ナターシャは“寂しそう”だと思った。 次に“悲しそう”だと思い、最後に、パパは何かが つらいのだと思う――感じる。 だが、ナターシャは、パパに『つらいの?』とは訊けず――訊きたくなかったので、 「パパ、寂しいの?」 と尋ねたのだ。 パパは、 「ナターシャがいるのに、なぜ?」 と答えてきた。 ベランダに立つパパの顔を見上げているナターシャの頭に手を置いて。 「ナターシャが来るまで、パパ、寂しかった?」 「今はナターシャがいるから寂しくないぞ」 「ほんと?」 「俺は嘘は言わん」 「ウン……」 パパが嘘をつかないことは、ナターシャも知っていた。 だから、パパが ナターシャと一緒にいて寂しくないのは 嘘ではないだろうと思う。 パパの その答えを聞いても ナターシャが安心できないのは、パパの答えが『寂しいの?』の答えで、『つらいの?』の答えではないから。 ナターシャは、パパがつらいのか否か、苦しいのか否か、大変なのか否かを知りたかったのだ。 知りたくて――知るのが恐かった。 「どうしたんだ」 ナターシャの中にある不安に気付いたらしいパパが、ナターシャに問うてくる。 ナターシャは 恐る恐る自分の中の不安の原因を、パパに打ち明けた。 「紫龍おじちゃんがね、パパが一人でナターシャみたいな小さな子供を育てるのは無理だって言ってるのを聞いたノ。いつかセワしきれなくなって、手放すことになるくらいなら、最初から引き取らない方がいいノニ……って」 ナターシャを育てるのが大変になって、つらくなって、苦しくなって、いつかパパがナターシャを手放すことになる。 その事態を、ナターシャは恐れていたのだ。 ナターシャはパパが大好きで、いつまでもパパと一緒にいたかったから。 絶対に手放したくないパパの手を、ナターシャは小さな二つの手で握りしめた。 「ナターシャは、いっぱい ご飯を食べて、なるべく早く大きくなって、パパがセワしきれなくならなくな――アレ?」 舌がもつれて――もとい、日本語が もつれて、どう言えばいいのかがわからない。 ナターシャは とにかく、セワがつらくも 苦しくも 大変でもないナターシャになりたいと思っていた。 そのためには“小さな子供”でなくなればいいのだと思っていた。 「ント、だから、ナターシャ、急いで大きくなるから、パパ、ナターシャをどこにもやらないデ」 「紫龍の野郎……」 ナターシャの頭の上から、パパが怒った時の声が聞こえてくる。 パパと紫龍おじちゃんが喧嘩をすると大変なことになるのを知っていたナターシャは、恐くなって、パパの手を握る手に力を込めた。 ナターシャの怯えに気付いたパパが、ナターシャの前にしゃがみ、ナターシャにだけ 笑顔とわかる笑顔を向けてくる。 「大丈夫。ナターシャは俺の娘だぞ。どこにもやらない。ずっと一緒だ」 「ウン!」 パパは嘘はつかない。 ナターシャは パパを信じている。 ナターシャは パパの首に 両腕でしがみついていった。 ナターシャ自身が安心したからではなく、パパを安心させるために。 |