氷河が瞬の前に姿を現わしたのは、その夜、瞬が そろそろ就寝しようと考えて、リビングルームのテーブルの上のティーカップを片付けようとしていた時だった。
深夜1時。
氷河は、最後の客を定刻で店内から追い出し、緊急時以外は禁じられている力を使って、ナターシャの許に飛んできたらしい。
瞬の家のリビングルームに 忽然と現れた氷河は、開口一番、
「すまん」
と言って、瞬に謝罪してきた。

どうやら ナターシャより先に氷河の方が、一人で寂しいことに耐えられなくなり、ナターシャを迎えに来てしまったらしい。
氷河が何を謝っているのか、それを確かめないために、瞬は小さく横に首を振った。
「叱らないであげて。ナターシャちゃんは、氷河のためにしたんだよ」
「……」
十数年来の戦友である乙女座の黄金聖闘士が なぜ そんな見当違いなことを言うのか、あえて確かめなくても、氷河はわかっているようだった。
瞬が責めてくれないことを責めるように、氷河が瞬の目を見詰めてくる。

普通の人間なら 見詰められていることに 5秒と耐えられないだろう氷河の青い瞳。
瞬でも、10秒も見詰められていると息苦しさを覚えてしまう 熱く冷たい青い瞳。
その瞳に、今夜は なぜか いつまでも見詰められていたいと思う。
この熱く冷たい青い瞳の中に閉じ込められるのは 数ヶ月振り。
氷河が ナターシャを手許に引き取って以来。
その瞳の中で、瞬の思考は、半分が 頼りなく あやふやになり、残りの半分が、鋭い刃を持つナイフのように研ぎ澄まされるという、おかしな状況に陥っていた。


瞬の瞳を見詰めたまま、やがて 氷河が思い切ったように 口を開く。
「紫龍や一輝はいつも、俺が周囲の人間に迷惑ばかりかけて 好き勝手に生きていると言う。だが、俺だって、最低限の礼儀や遠慮はわきまえているんだ」
「うん」
「ナターシャを引き取ったのは、俺の身勝手で、独断だ。ナターシャのことで、おまえに迷惑はかけられない。ただ 友だちとして――仲間として……」
適切な言葉を思いつけなかったのか、氷河が 一度 言葉を途切らせる。
結局、自信を持って適切と思える言葉を見付けられなかったらしい氷河は、自身の語彙力が不本意でならないような口調で、
「紫龍に頼めるのと同レベルのことしか頼らない」
と言った。
「……」
氷河が不本意に感じているのは、あるいは 己れの語彙力ではなく、結局は仲間に頼っている自分の人間性に関してだったのかもしれない。

「だから、俺はこうすると決めたんだ」
「うん……」
「ナターシャのことで生じる責任も負担も、俺が一人で負う。アテナの聖闘士として、一人の人間として、生きて存在するのに最低限必要な力、最低限必要な時間以外の 力と時間のすべてを、俺は ナターシャのために割く。決めたのは俺だ。俺なのに……」

決めたのは氷河だった。
アテナの聖闘士として、一人の人間として、生きて存在するのに最低限必要な力、最低限必要な時間以外の 力と時間。
その中に、恋のための力と時間は含まれていない――含まれるべきではない。
――と決めたのは、氷河だった。
瞬は、氷河の決断に従ったにすぎない。

「俺は いつも、自分の心と力を見誤る」
氷河の腕が、瞬の首と腰に絡みつき、抱きしめ、瞬の身体を締めつけてくる。
「ナターシャに見透かされるほど、俺は――」
「氷河……」
「俺は、俺の最低限を見誤っていたんだ」
氷河の唇が 瞬の唇に重なってくる。

懐かしい、その感触。
氷河の身体の熱さ。
重心を見失って倒れてしまわないように――むしろ 一緒に倒れるために、瞬は――瞬も――氷河の背に腕を回そうとしたのである。
が、その時、
「瞬ちゃん。ナターシャ、やっぱり、パパのとこに帰る……」
突然、リビングルームのドアが開いた。
「ナターシャがいないと、パパが寂しくて泣いてるカモしれナイ……」

リビングルームの灯りが眩しかったのか、こしこしと目をこすっているナターシャの姿。
こすり終えた目を(しばたた)かせ、室内に視線を巡らせたナターシャは、そこに“瞬ちゃん”以外の誰かがいることに驚いたようだった。
しかも、その“誰か”が、よく見るとパパで、そのパパが瞬ちゃんを抱きしめているのだ。

ナターシャが本当に驚いたのは、だが、そこにパパがいることではなく、パパがパパの顔をしていないことだったかもしれない。
変化の振れ幅が小さい氷河の表情の僅かな違いを 見極めることのできるナターシャは、そこにいるのが パパではなく、恋に身を焼く一人の男だということを 感じ取ってしまったのかもしれなかった。

「えっ」
短い声を上げたきり、瞳を見開いて リビングルームのドアの前に突っ立っているナターシャ。
だが、その場で、その事態に驚いているのは ナターシャだけではなかったのである。
見知らぬ顔のパパに出会ってしまったナターシャより――今は、氷河と瞬の方が より大きな驚きに支配されていたかもしれなかった。
なにしろ、黄金聖闘士が二人も揃って、リビングルームに向かって廊下を歩いてきた小さな少女の気配に気付かなかったのだ。
これが敵だったなら、どうなっていたことか。
これ以上ないほどの不覚。まさに不覚の極み。
幸い、ナターシャは敵ではなく、氷河と瞬は、彼女から 素朴な疑問を手渡されるだけで済んだのだが。






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