「沙織さん……」
氷河と瞬の姿の消えたアテナ神殿、アテナの玉座の間。
畏れ多くも、地上の平和と聖域の全聖闘士を統べる知恵と戦いの女神に、紫龍は疑いの目を向けていた。
否、それは、容疑者を見詰める疑いの目ではなく、有罪が確定された犯人を見る善良な市民の非難糾弾の眼差しだった。

「あの絵のモデルは瞬ですね」
クロノスの登場で、紫龍は それ以外の可能性を考えることができなくなってしまったのだ。
「だよなー。どう見たって、あの絵は瞬の絵だよな」
龍座の聖闘士と同様に、クロノスの登場で そうと気付いた星矢が 同じ言葉を呟いたが、星矢の声には 紫龍のそれほど 強い非難の響きは含まれていなかった。
星矢は、紫龍とは異なり、歴史や時間のルールが破られることに、大きな問題があるとは考えていなかったのだ。
人様に迷惑をかけることなく、肉まんが手に入れば それでいい――というのが、星矢のスタンス。
そして、どういう手を使っても10兆円を手に入れたい――というのが、アテナのスタンスなのである。

アテナは、アペレスの絵が 誰の注文で描かれたのか、その所有権は誰にあるのかを探らせるために、氷河たちを過去に送り込んだのではない。
彼女は、絵の所有権が誰にあるのかを気にすることなく(正当な所有者の権利を侵すことなく)、問題の絵の代価を得るために、画家の許に“モデルを”送り込んだのだ。

絵が先か、モデルと画家の出会いが先か。
面倒なタイムパラドクスは わからない――あまり考えたくないが、アテナがクロノスの力を頼んで 瞬を過去に送り込んだことで、あの絵は描かれることになった。
それだけが、現代の聖域に生きている青銅聖闘士たちに わかる唯一確実な事実だった。

「十二宮の再建は必要よ。聖域は地上の平和の砦なんですもの。でも、聖域の再建にグラードの力を使ったり、私の私財を投じようとすると、辰巳がうるさいのよ」
「しかし――」
「普通の絵描きなら 誰だって――いいえ、自分の力と才能に自負のある画家なら 誰だって、目の前に瞬がいたら、瞬の絵を描きたいと思うものでしょう」
「そういうものかもしれませんが――」
「瞬だって、過去に送り込まれる前なら ともかく、実際に送り込まれてしまったら、地上の平和と聖域のために、自分が何をすべきなのかは わかるはずよ」
「ですが、こんなルール違反のやり方は――」
「そんで、10兆円が俺たちのものか。やったぜ!」

アテナも星矢も、聖闘士の善悪を判断する天秤座の黄金聖闘士になる予定の男の言葉など、聞いてもいない。
肉まんが手に入ればいい星矢と、十二宮の再建費用が欲しい沙織。
二人は、目的が正しく、他人に迷惑がかからないのであれば、どんな作為も工作も逸脱も許されると信じている。
自然の摂理に逆らっても、時間の(ことわり)を無視しても、人を害することがなければ無問題である――と。
本当に これでいいのだろうかと悩む紫龍も、動き出してしまった時の流れ(逆流である)を正す力は、残念ながら持ってはいなかった。






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