アルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世――アレクサンドロス大王。 彼は、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破って、ギリシャを支配下に置いたのち、20歳の若さでマケドニア王国の王として即位した。 その後、小アジアを征服、エジプトを征服、ペルシア王国を滅亡に追いやり、中央アジアへ侵攻、インド遠征を企てる。 インド西部を次々に支配下に収め、更に インド中央部に向かおうとしたのだが、彼の兵士たちがそれ以上の進軍を拒否したため、やむなく軍を返すことにした――と、記録には残っている。 世界を手中に収めたい大王。 故郷での安楽と栄華を求める兵士たち。 大王の遠大すぎる夢に、彼の兵士たちは疲れ始めていた。 世界の果てを夢見る大王。 一国の王であれば十分と考えるマケドニアの将軍たち。 一家の幸福だけを願う兵士たち。 大王と彼の部下たちの意識の乖離は、もはや修復不可能な状態になっているらしい。 「陛下の父君フィリッポス2世陛下に 宮廷画家としてマケドニア王宮に招かれた時には、私も、その名誉な招聘を心から喜んだんです。それまでの研鑽と努力が実りを結び、私の実力が認められのだと思った。画家としての最高の栄誉が約束されたのだと信じた。まもなく前王陛下は亡くなられたが、後を継いだアレクサンドロス王陛下は 父君以上に、私の力を買ってくれていた。当時、陛下は まだ20歳で王位に就いたばかり。若く生気に満ち、自信と実力を兼ね備えた美しい新王。初めて描いた時には感動した。その後、陛下の絵ばかり描かされることになるとは思ってもいなかった。ここ10年、私は陛下の肖像しか描いていない。陛下以外のものを描くことが許されないのだ。陛下以外の絵を描くことは、職務怠慢と見なされる」 「それはまた……。まあ、毎日 ステーキばかり食わされていたら、たまには 冷ややっこも食いたくなるだろうな」 「私が描いた陛下の肖像画の多くは、陛下が戦いで打ち破り 支配した国々の王や武将の許に送られるんだ。陛下当人に対するのと同じように遇するようにとの命令付きで。ペルシャでもギリシャでもエジプトでも、皆が、私の描いた絵に平伏しているそうだ。陛下の武力の前に屈した者たちには屈辱の極みだろう。陛下は敵を打ち破り続けている。私の描く肖像画が間に合わないほどの速さと勢いで。陛下は勝ちすぎた。帝国は広くなりすぎた。今、帝国内には、あちこちに亀裂が走り、不穏の空気が満ちている。もし今、大王が崩御するようなことがあったら、私の描いた陛下の肖像は、すべて すぐさま焼かれてしまうだろう。私の描いた絵は、一枚も残らない。私が生きた証は、この地上に何一つ残らないんだ」 項垂れ、憔悴しきっている画家の悲痛な訴えは、瞬の胸を打った。 彼の推測は、現実のものとなる。 これほどの画力を持ちながら、彼の絵はすべて失われてしまうのだ。 その事実を知っているだけに、気休めや慰撫の言葉を口にすることもできない。 「あ……」 瞬の胸の痛みに、氷河が更に剣を突き立ててきた。 「瞬。アレクサンドロス大王は、インド遠征を断念し、バビロンに帰国した翌年の初夏に30そこそこの若さで死んでいる。今はおそらく 大王の死の前年の10月か11月だ。今から半年後に、大王は死ぬ」 小声で――というより、小宇宙で、氷河が伝えてきた 歴史的事実に、瞬は青ざめてしまったのである。 西ヨーロッパからインドにまで及ぶ 大帝国を築いたアレクサンドロス大王は、彼の帝国が 自分という一人の人間のカリスマによって統一が保たれている国だということを知っていた。 自分が築いた帝国の統治権が、自分の子孫に受け継がれることは不可能と察していた大王は、 『最強の者が帝国を継承せよ』 という遺言を残して亡くなったと言われている。 彼の死後、彼の予見は 速やかに現実のものとなった。 アレクサンドロスの築いた世界帝国は、まもなく崩壊するのだ。 「私は、1枚でいいから、焼かれぬ絵を残したい……」 画家は帝国の崩壊を予感しているのかもしれなかった。 力なく項垂れている画家の痩躯には、既に創作のための力は残っていないように見える。 それでも、彼は、絵筆を握りしめたまま、手放そうとしない。 何十年もの時間をかけて 養ってきた芸術面での技術、築いてきた画家としての名誉、輝かしい名声、数々の優れた作品。 それら すべてが、遠からず 消え去ってしまうのだ。 つまり、彼の生きた証が。 瞬は、彼を気の毒に思わないわけにはいかなかったのである。 古代ギリシャ随一の画家の肩を見詰める瞬の眉が つらそうに歪み、その瞳に深い憐憫の色が浮かぶ。 瞬が 気の毒な老画家のために何をしようとしているのか。 瞬の考えを 即座に察して、氷河は慌てた。 「瞬、冷静になれ。この画家が おまえの絵を描くことは、本来は あり得ないことなんだ」 そんなふうに 瞬を諭しながら、氷河は 既に諦めていた。 瞬は、この画家の不運に、深く同情している。 自らの人生を真摯に生きてきた老人に、ささやかな報い、ささやかな希望、ささやかな輝きが与えられてもいいではないかと、そのために アテナの聖闘士が ほんの少し力を貸すことが許されてもいいではないかと、瞬は 優しい気持ちで思っているのだ。 こうなると、氷河には――誰にも――瞬の心を動かすことはできなかった。 瞬の優しさは、梃子でも動かせない。 瞬は、瞬のしたいことをするのである。 「……僕たちは、ここに 3日しか いられないんです。その間、この王宮に寝泊まりできる場所と、食事を与えてください。そうしてくれたら、僕、あなたの絵のモデルを務めます」 「ほ……本当ですか !? 」 この時代の男子の平均寿命は、50前後。 60前後なのだろう画家は 突然、20歳も若返ったように見えた。 絵を描くことは好きなのだろう。 自分の技術力量への自負もある。 その力によって、名声も地位も財も得た。 にもかかわらず、自分の生きた証を残すことができないという予感が、彼に『自分は無価値』と思わせていただけで。 たった1枚。 たった1枚、自分の描いた絵を後世に残せるのなら、彼は幸福なのかもしれない。 それ以上、望むことはないのかもしれない。 その“たった1枚”が瞬の絵だというのなら、彼は 人類の歴史始まって以来、最も幸運な画家である。 人類の歴史が終わる時まで、彼以上に幸運な画家は現れないだろう。 そう思いながら、氷河は、瞬の優しさに付き合うしかなかった。 |