光が丘公園のふれあいの径は、樹齢130年以上のイチョウの巨木が連なる並木道になっている。 イチョウの葉は 金色に染まる作業を ほぼ完了し、少しずつ 散り始めていた。 宙を舞っているイチョウの葉を 歩道に落ちる前に掴まえようとして ナターシャは はしゃぎ、星矢は そんなナターシャと同レベルもしくは ナターシャ以上の ハイテンションで はしゃいでいる。 保育士の仕事の中で最も過酷と言われる園外保育の引率作業を押しつけられた体の紫龍は、既に 疲労困憊状態だった。 この世界は平和。 もちろん、この平和と幸福が いつまでも続くとは限らないだろう。 だが、少なくとも今は、アテナの聖闘士たちが揃って 焼き芋を買いに行けるほど、この世界は平和なのだ。 「どこかに――たとえば、マーマが死なずに生きている世界があるとして、その世界で生き直したいとは思わないぞ、俺は」 「え?」 突然――本当に、どんな前置きもなく突然――氷河が低い声で語り出す。 氷河の目は、イチョウ並木の先で 星矢と一緒に はしゃいでいるナターシャの上に据えられていて、隣りにいる瞬を見ていない。 しかし、彼は 瞬に向かって語っていた。 氷河の突拍子のなさ、脈絡のなさに慣れている瞬は、黙って、彼の続く言葉を待った。 「たとえ その世界で どれほど幸福で穏やかな一生を生きられるのだとしても、俺は その世界に行って生きようとは思わない」 「そうなの……?」 「当たりまえだ。幸福というのは、自分が生まれ、生きてきた世界で、自分の手で、自分の力で築いたものでなければ、価値がない」 「うん……」 そう考える氷河の気持ちは、瞬もわかるような気がした。 両親が健在で、兄と共に 標準的な家庭の子供として育ち、聖闘士になることを強いられることもなく、普通の社会人になる。 そんな運命が用意されている世界に招待されたとしても、瞬は その招待に応じることはしないだろう。 たとえ、そこでなら 誰も傷付けずに済む一生を生きられるとわかっていても、その世界の住人になろうとは思わない。 「そして、たとえば おまえが俺を殺さなければならなくなる世界があったとしても、俺は その世界に行って、その世界の運命を変えようとは思わない」 「氷河……」 やはり氷河は、瞬のあの悪夢を見てしまっていたのだろう。 そして、彼も、あの夢をただの悪夢だとは思わなかったのだ。 だが、それでも――あの悪夢が ただの夢でなかったとしても、それは 自分たちの生きている世界とは関わりのない別世界での出来事なのだと、氷河は言っている。 平穏な世界に生きている自分たちも、悲惨な世界に生きている自分たちも、この世界の自分たちとは無関係な別の二人。 自分たちは、自分たちの世界で、自分たちの生を懸命に生きるしかないと。 「うん……。うん、わかってるんだ」 たとえ本当に あの悪夢の世界が どこかに存在するのだとしても、人は 別世界の自分の言動にまで責任を負うことはできないし、負うべきでもない。 それは 瞬にもわかっていた。 ただ、あの夢の中で、氷河の身体を切り裂いた あの感触があまりに重く、あまりに不気味で、忘れたいのに忘れられない――というだけで。 「僕たちにとっては夢。それは わかってる……わかっているんだ。僕はただ――もし そんな世界の中に投げ込まれたら、僕は どうするんだろうって考えただけ」 「それは もちろん、元の世界に戻ろうとするだろう。ここ以外のどこに どんな世界があったとしても、それは 俺たちにとっては別の世界、夢の世界だ。人は、夢の世界で、必死に生きようなどとは考えない。人は誰も、自分の世界で生きるのに手一杯だ」 「ん。そうだね。僕も元の世界に戻ろうとするだろうと思う。氷河のところに。その世界にも その世界の氷河がいるかもしれないけど、その氷河は 僕の氷河じゃないだろうし」 「ああ」 頷いて、氷河がまた その視線をナターシャの上に投じる。 ナターシャは、自分の望み通りの綺麗なイチョウの葉を手に入れたらしく、その葉を日にかざして、嬉しそうに歓声をあげていた。 「死んだ黄金聖闘士たちが 若返って生き返ってきているんだ。今、俺たちの周囲は、次元や時空、此岸と彼岸、色々なことが全く狂ってしまっているんだと思う。俺たちの世界の外には、どんな世界も あり得るんだろうとも思う。そして、どんな世界ででも、俺は おまえと――おまえたちと出会うことはできるだろうと思うんだ。おまえたちに会えない世界はないだろう、とな。だが、他の世界では――俺は ナターシャに出会えるとは限らないような気がするんだ。俺が ナターシャに会えない世界もあるんだろうと思う」 だから、別の世界のことなど考えたくもない――というのが、氷河の気持ちらしい。 瞬の姿をした冥府の王に切り捨てられることより、ナターシャに会えないことの方が、氷河は つらいことであるらしい。 愛する者に傷付けられることより、愛する者に出会えないことの方がつらい。 氷河らしい感じ方、氷河らしい考え方、氷河らしい価値観だと、瞬は思った。 「なら、なおさら、自分の世界でナターシャちゃんに出会えたことに感謝して、何としても ナターシャちゃんを幸せにしてあげなきゃね」 「ああ、そうだな」 氷河と瞬、星矢、紫龍、一輝。 ナターシャには会えなくても、五人は必ず出会うことができる。 氷河のその確信には どんな根拠もないだろう。 どんな根拠もないのに、瞬は――瞬もまた――氷河と同じ確信を胸に抱いていた。 僕たちは必ず出会える――と。 「僕も、僕たちは必ず出会えるだろうと思うけど……。でも、どこかには、僕と氷河が仲間同士のまま――仲間同士で、戦友同士なだけの世界もあるかもしれないよ。氷河と僕が いつまでも ちょっと仲のいい 友だち同士でいる世界」 そんな世界も、少し切ないが、ほのぼのしていて、なかなかいいのではないか。 口許に自然に浮かんでくる微笑と共に 瞬が持ち出した空想話に、氷河が ふいに足を止める。 そうして 彼は、彼がナターシャと暮らすようになってから ついぞ見ることがなくなっていた冷ややかな目で、瞬を睥睨してきた。 「氷河……?」 「別の世界の話など、金輪際するな。俺と おまえが ちょっと仲のいい友だち同士の世界 !? そんな世界、おまえに殺される世界より地獄だ!」 「えっ」 “ナターシャに出会えないかもしれない世界”の存在の可能性は 穏やかに語っていたのに、“氷河と瞬が ちょっと仲のいい友だち同士でいる世界”は、IFの話として語ることすら不快だと、氷河は言うのか。 氷河の価値観、氷河の感性、氷河の望む幸せの姿が、今ひとつ明瞭に把握できない。 ぽかんとして、その場に立ち止まってしまった瞬を からかうように、黄色に染まったイチョウの葉が 金色の光を放ちながら、瞬の肩に落ちてくる。 地獄も色々。 おそらく、幸福の姿も色々である。 Fin.
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