「あの……失礼ですが、あなたの お名前は何と おっしゃるんですか」
本当は確かめたくなかったのだが、確かめないわけにもいかず、恐る恐る 瞬は彼女に尋ねた。
「カトリーヌ」
予想通りの答えが返ってくる。
「カトリーヌ……というのは、カトリーヌ・ド・メディシスさん? フランス国王アンリ2世のお妃の?」
「いかにも。わらわはフランス王妃じゃ」
念のために確認を入れた瞬に、カトリーヌは軽く顎を持ち上げて、肯定の意を示してきた。

彼女は、間違いなく歴史上の著名人。
彼女が会えて嬉しいと思うことも、この出会いを光栄と思うこともできない有名人だった。瞬にとっては。
しかし、ナターシャにとっては そうではなかったらしい。
「カトちゃんだねっ!」
ナターシャは、彼女に出会えたことを嬉しく感じているようだった。
親しげに彼女の名を呼んで、ナターシャは ベンチを一人で占領している彼女に近付いていった。
ナターシャは、カトちゃんの重たそうなドレスに興味津々らしい。

「カトちゃんは、今から500年くらい昔から来た人なんだよ。だから、こんなふうに重そうなドレスを着てるの」
「ウン。重そうダネ。デモ、綺麗ダヨ」
ナターシャには、(一応)氷河がフランス語を教えている。
ただし、ナターシャは あまり熱心な生徒ではなく、彼女の先生の評価は、一貫して『ナターシャは ケーキの名前しか覚えようとしないんだ』だった。

しかし、今、ナターシャは、カトリーヌが口にするイタリア訛りの残るフランス語を完全に理解しているようだった。
カトリーヌも、ナターシャが話している日本語を理解しているらしい。
これはクロノスの力によるものなのだろう。
瞬は、本音を言えば、二人の意思の疎通ができない方が、面倒なことにならなくていいのではないかと思わないでもなかったのだが。

カトちゃんは、ナターシャには、重そうなドレスを着た、蘭子ママに似ている“変な人”でしかないだろう。
が、瞬と氷河にとって、フランス国王アンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシスといえば、数万人のプロテスタントの命を奪ったサン・バルテルミーの虐殺の立役者である。
ナターシャが“カトちゃん”と呼んで、血にまみれた 稀代の悪女と親しくなることを、氷河と瞬は 諸手を上げて歓迎する気にはなれなかった。

カトリーヌ・ド・メディシスは、フランス人ではなく、イタリア人である。
イタリアのフィレンツェで、1519年、名門メディチ家に 豪華王ロレンツォ・デ・メディチの孫娘として生を受けた。
彼女の出産直後、母親が亡くなり、間もなく父親も亡くして 孤児になるが、メディチの娘には 普通の孤児のように 平穏で地味な人生を送ることは許されなかった。
彼女の大叔父であるローマ教皇クレメンス7世が、フランス王フランソワ1世の第二王子アンリと彼女の婚姻を取り決める。
僅か14歳でフランスに嫁いだカトリーヌは、だが、夫に愛されることはなかった。
カトリーヌと同い年の夫には、19歳も年上の愛人 ディアーヌ・ド・ポワチエがおり、彼は愛の手管に長けた美貌の愛人に夢中で、メディチ家という木になったこと以外に どんな美点もない青く硬く苦いオレンジの実には見向きもしなかったのだ。

その上、カトリータには、嫁いでから10年間、子供ができなかった。
正妃との間に 世継ぎが必要なフランス宮廷の者たちの画策もあって、嫁いで10年後にやっと 長男フランソワが誕生。
その後、夫との間に、長子フランソワを入れて10人の子女を儲けたが、絶え間ない妊娠は、かえって彼女を夫から遠ざける口実に使われた。
妻が妊娠すると、彼女の夫アンリは、王としての苦行を務め終えたと言わんばかりに 喜々として愛人の許に向かい、そこに入り浸ったのだ。
カトリーヌ・ド・メディシスは、夫との間に10人もの子を儲けたというのに、歴史上 最も有名な“夫に愛されなかった妻”なのである。

「わらわは、数ヶ月前、双子の女児を死産した。医師には、もはや 子を身ごもることはできないだろうと言われた。おそらく、夫は二度と わらわの臥所に来ることはないだろう」
彼女の夫アンリ2世は、王としての務めも 夫としての務めも果たしたのだ。
カトリーヌは30代後半。既に若さは失われた。
しかも、お世辞にも『美しい』とは言い難い容姿の持ち主。
彼女の夫が 彼の正妃を顧みることは、二度とないだろう――彼は、彼の妻を必要としていないのだ。
そんな未来を思い描いて、カトリーヌは、自分の人生が終わったような気分になっていたらしい。

そんな時、ノストラダムスが彼女の夫の死を予言した。
これから 2、3年の内に、彼女の夫アンリ2世は不慮の事故で命を落とすというのだ。
「そして、わらわは、夫の死後も30年以上 生き続けるそうじゃ」
カトリーヌの唇が 皮肉げに乾いた笑みを作る。
その乾いた笑みは、だが、すぐに苦しそうに歪み始めた。

「わらわは、一度でいいから夫に愛されたいのじゃ。夫が死ぬ前に、一度でいいから、愛情のこもった眼差しで 夫に見詰められたい。一言でいいから、優しい言葉を掛けてほしい。夫の心を わらわに向けるため、魔法薬も まじないも、ありとあらゆることを試した。だが、すべては徒労に終わった」
両の拳が、カトリーヌの膝の上で固く握り締められる。
生活面での苦労などしたことがないはずなのに、彼女は、その手指までが ごつごつと武骨にできている。
それは、これまでの彼女が 嫉妬と憎悪と傷心で 拳を握りしめない日がなかったせいなのかもしれなかった。

「ディアーヌは、夫より19歳も年上の56歳。もはや 老女じゃぞ。16歳の若い娘に負けるのなら、諦めもつく。だが、あの女は わらわより19も年上なのに、わらわは ディアーヌより19歳も若いのに、あの女の手から夫を取り戻すことができないのじゃ……」
「……」
カトリーヌの無念は わからないではないが、こればかりは アテナの聖闘士にも どうすることもできない。
“正妃だから”、“若いから”、“美しいから”、“愛されているのだから”。
たとえ どんな理由があろうとも、人は人に『あなたは あの人を愛しなさい』と命じることはできないのだ。

「それを指に 嵌めれば、誰からも愛される指輪が ここにあると、ノストラダムスは言っていた。日暮れまでに探し出すことができたなら、その指輪の力は わらわのものになるのだと」
「日暮れまで? 3日じゃないのか」
無責任を絵に描いたようなクロノスも、さすがに16世紀に生きた女性を、21世紀の世界に3日間も放り込んでおくのはまずい――と思ったのだろうか。
「この時代、この場所に 宝探しをさせるために彼女を送り込んだのは、クロノスの存在を知っている俺たちがここにいるからだろう。どうせ半日程度しか時間を与えないのなら、ハロウィンの日にしてくれればよかったのに。それなら、魔法使いのおばあさんのコスプレで済んだんだ」

日本語で喋っても、カトリーヌには意味が通じている可能性が高い。
氷河の言いたい放題に慌てた瞬は、彼の呟きに自分の声をかぶせるようにして、魔法の指輪探索を諦めるよう、カトリーヌ説得を始めた。
「愛する人に愛されたい気持ちはわかります。ですが、魔法の力で愛を手に入れても、それは まやかしにすぎないでしょう。それ以前に、魔法の指輪なんて、この世には存在しませんよ」
カトリーヌの生きた16世紀欧州。
それは、コペルニクスやガリレイが地動説を唱え、錬金術師パラケルススが活躍した、科学と魔法が混沌としていた最後の時代である。
科学では 対処できない愛の問題に、彼女は 魔法の力によって、自らの望みを叶えようとしたのだろうか。






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